書物蔵

古本オモシロガリズム

火保図の歴史について

ある文献を見たら、トンでもないことがわかった(≧∇≦)ノ
はじめて網羅的な(?)火保図文献年表で、このようにわちきが記載しものがある。

玉木一介「火災保険図」『保険界』7(5) p.28-29 (1954.5) ※未見 現用品としての説明か?

いやサ、これハ、国会の雑索をそのまま引いた(まぁ保険図と保険地図、両用で引く必要があるんだけど)だけの書誌であった。
わちきは1950年ごろまで火保図は現用ではなかったか、という(後代の)記述をもとに、掲載誌が業界誌でもあるし、「現用品としての説明か?」と未見であるにもかかはらず注記したのであったが。
いや文献調査というのは、びっくりなもんなんですワ。
ことのついでにこの文献を見たらば、正確な書誌としてはつぎのごとくなれり…

玉木一介「火災保険図(損保今昔物語の内)」『保険界』7(5) p.28-29,20 (1954.5)

ん?(・ω・。) たいして違わんってか(^-^;)
それが素人の浅はかさ、実はこの記事、「損保今昔物語の内」という連載の一環であった。

初期ザッサクのデータ

いまの国会図書館が発足したのが1948年。雑索が始まったのが1949年。このデータが採録されたのがそれから6年目。それから50年近くたって、入力されてネット公開されている。
だから、採録データに不備(たとえば、昔の文献は版組みの都合上、よく原稿末尾を同一号のぜんぜん違うページにのっけたりするが、これもそれで、p.20もコピーせねば記事が終わらない)だったり、採録対象が少なかったりするわけである。
で。
今回、わちきの誤算のもとが、記事シリーズ名が採録されてなかったということ。
採録されていれば、ただ火保図についての記事でなく、昭和29年の時点で回顧的(つまり歴史的)展望をしている記事であると気づいたはずである。そして、まっさきに参照せねば!となったはずである。
それがこんなにおそうなってしまって(^-^;)
これこそまさに、

火保図の歴史を展望した記事

ぢゃないすか!`・ω・´)o

超重要

と、現物を見て気づけり。
いやー重要な事実ばかりが書いてある重要記事。
なのに今まで誰も参照した形跡がないのも、オモシロですなぁ(´▽`*)
つまりは、1980年ごろの火保図発見よりまへ1949年に火保図の歴史が書かれていたというビックリなのだ。
で、ビックリ文献の中身をメモ(〃^-^)φ

1930s?スイス再保険会社に東京の火保図

著者が戦前、瑞西(スイス)再保険会社(チューリヒ)を訪問。
案内してくれたWハビヒト氏に火保図を見せられた。
東京市内の火災保険図」
「色々と詳細なことが書き込んであるもの」
「同社の図面室には斯うして世界中の主要都市の図面が集められ」
「各元受会社から送られて来るボルドローと照会されて居る」
のを見たという。

英米火保図の概略

ゴード・マップ・カンパニー(英)とサンボーン・マップ・カンパニー(米)の火保図の紹介。

日本火保図濫觴

日本でも火保図は「比較的に古い」時代に導入されていたが、「英米の夫れと比較したら頗る幼稚なものだった」
著者が「東京火災」に入社したころ(大正期?)すでに会社に簡易な火保図があった→してみると、火保図専門会社が成立する前に各損保が必要上から海外火保図をまねて作っていた、と見られる。
 東京市内1/600 「実に可愛らしい小児の玩具のやうなもの」
 地図記号はサンボーンを模倣
 契約者をピンで表示

複数の火保図製作社

昭和の初めごろ国内に複数の火保図製作社があった
 火保資料調査株式会社 村井栄一 「殆んど個人的な仕事として完成」
 「商社名は一寸失念」 沼尻長治

利用側で火保図研究した人々

保険会社の図面係の人たち 「利用する側〔保険会社〕の立場で随分と熱心に勉強し研鑽を重ねられたものである」
篠原三郎(大阪海上) 中根要(豊国火災) 青山伊久三(日本火災
小宮鉄次(ふそう海上
高田政敏(東京海上
このようにすらすら玉木さんが名前を挙げているということは、これらの人々が業界横断的な研究会を組織していたと考えてよいだろう。その名称がないのが残念なところ。

1941年末から火保図非現用説

わちき、火保図は1950年ごろまで現用だった説にのっていたけれど、玉木証言によれば、「大東亜戦争が始まってから…火災保険図の利用などと云うことは全く忘れ去られて昔話のやうになって終った」という。
これにくわえて、「開戦後まもなく保険会社が所有する火災保険図は防諜上許しがたいものとして押収廃棄を命ぜられた」、「工場危険分割の詳細図などは怪しからぬものとして憲兵隊から始末書を取られるやうな騒ぎさへあった」ともある。
沼尻証言(井沢1999)にもあったけど、やはり火保図押収に動いていたのは憲兵隊であったようだ。とすれば、これは軍機保護の文脈で、出版法の文脈(こっちなら、押収に来るのは警官)でないということか。ちなみに超ささいなことをいうと「工場危険分割の詳細図」というのは火保図の2類型のひとつ。いま、火保図というと住宅地図のようなものしかみな考えとらんが、同時代にあっては工場の場内地図(一般配置図みたいなものだろう)も火保図として考えられていた(たしか横尾1961)。
玉木は、戦争で都市が焦土になったので「〔押収された〕古い火災保険図が存在しても〔現用としては〕や国は立たなかったらう」といい、「今日火災保険図の話などを持ち出したら或は一笑に附せられて終うかも知れない」と、1949年の段階で、現用品でないと言う。
わちきの作った文献年表をみると、この2年後(1951)沼尻の会社は「日本火保図」と改称されており、それが「都市整図」になるのは1956年なので、戦後も一時期、火保図は現用とせられていたのではないか、とも考えられる。ここいらへんは矛盾するように見えるが、もしかすると、玉木がいたような大損保ではニーズがなくなったが中小ではニーズが残っていたのかもしれない。疑問点である。

戦後の類例

戦後、損害保険協会の「料率算定会」で火保図もどきを作ったことがあるという。ただし、これは一回こっきりのものだったらしい。

末尾にオモシロ記述

玉木の立論は終始、現用として復活さすべきという再評価、あるいは業界史的顕彰を説くものではあるのだが、末尾にオモシロな記述がある。

今日までに作られた貴重な図面を徒に書庫に寝ら〔ママ〕せてはならぬ。また之を損保業者のみの宝の持ち腐れにもしたくないものだ。

この記述って、じつは同じ記事内の、1) 戦前のものは憲兵隊がみんな持ってっちゃった、という話、プラス 2) 戦中から火保図は非現用になった、という話と矛盾するの、わかるよね(o^ー')b
じゃあ、玉木さんのいう「徒に書庫に寝」てる火保図って戦前のなの?戦後のなの?って問いにはどう答えりゃいーの(σ・∀・)
答えは2パターンぐらい考えられるよね(σ^〜^)
オモシロ…