書物蔵

古本オモシロガリズム

図書のオビ(帯)について、図書館情報学的知見

紀田順一郎先生のサイト見てたらUP時に見逃していた一節を発見。
本のオビについてのことだんだけれど、その注にオモシロな一節。

古書収集の極意は殺意(・o・;)

(注)以上は一九九四年四月の読売新聞に寄稿したもの。それをいま再録するのは『三太郎の日記』オビの情報源である詩書コレクター故小寺謙吉の消息を耳にしたからだ。没後十年間、その蔵書は行方不明となっていたが、古書雀によると、最近どうやら放出がはじまったらしい。無論、オビつきの完本ばかり。『三太郎の日記』のオビも、一度は拝みたいものだ。
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2010/111003/index.html

文芸書、特に詩書などは帯つきが骨董的価値がでて高くなるということだねぇ。
んでもって、そんなレア物ばかりの小寺謙吉のコレクションが古書市場にやうやく流れつつあるという。

図書館でも捨てていた

 私が学生時代、というのは戦後十年目ぐらいだが、教師から「本を買ったらケースやカバーは捨てるように」という指導を受けた。書誌学者の本を読んでも、そのようなものは書物の要素を構成しない、単なる「付きもの」にすぎないという記載があった。ましてやオビなどは問題外で、さっさと捨ててしまうのが常だった。

いやさ、図書館でも捨てていた。
まぁいまはフィルムコートでくるむ装備が流行ってからは、いっしょにくるまれることが多くなったけどね。
ただこれは、利用者からのニーズがそうさせているだけであって、別に図書館情報学的に「帯」の重要性が論じられたからではぜんぜんない。まぁ斯学で「装備」なるものが議論されたのは1950年代までのようなきもする。
広く日本人が図書館学的知見に触れたのは、1950年の学校図書館法成立前後で、初歩的な分類・補修などの知見が、地方の学校にできた図書館などを通じて学校文化の一部になったといってよいだろう。大人のインテリ向けには大都市にあったCIE図書館がモデルになったし。
さきに挙げた紀田順一郎少年の回想も、もしかしたらその一環だったのではなかろうか。
ただ英米の図書文化では、あまりジャケットとか帯とかは重んじられないし、図書館学のほうでも、情報として意味のある解説や著者略歴などが印刷されてれば、その部分だけ切り取って見返しに張り込むという形で対応して、特段の問題になっていないといえるのではあるまいか。
ジャケットに本の美の大部分が移行して、ましてやその外側のオビなんて、英米図書館学で論じようもないだろう。そして、library science in Japan(日本図書館学)は、Japanese library science(日本的図書館学)ではなかったので、現実に目の前に生じている図書館現象(ジャケット・オビ)を見ることができなかったというワケ。
日本の図書館関係者がそれを捕捉するには、「装備」が外注化される1980年代を待たねばならかったし、おかげで日本図書館学のなかに議論はない。

メタ・データの一種

で、これは一度も読んだことないんだけど、実は帯の文章ってメタ・データとして重要なんよ。
テクストからメタ・データがコンピータ生成できるなんちゅーアホな考えに情報工学の人はスグはまっちゃうんだけど、それはむり(補助にはなるかもしれんが)。概念索引法でやるしかないのだけど、その時にインデクサーは何を見てるのかというと、実はタイトルや目次、まえがきなど要約レベルの情報があるテキスト(本)の部分なんだけど、ぜつみょーな位置に「帯」のジャック(惹句)があるワケ。
で。
オビの文って、テキストに果てしなく近い文ではあるけど、テキストでないでしょ(σ・∀・)
インデクシングにとっても役に立つ。