書物蔵

古本オモシロガリズム

司書を僭称するクラーク

これを読んだら。

ところでこれは愚痴めいたエピソードだが、先日、ある図書館から戦時下に作られた外地の子供たちの文集に注文をいただいた。ガリ版刷りの、もちろん当時のオリジナルの冊子だ。ところが、この裏表紙に子供の落書きがあるという理由で返品となった。まだ若い担当者は、おそらく「落書き」のある本は受入れられないというマニュアルに沿っただけなのだろう。私はなんだか寒々しい気持ちになった。

もしほんとうにそんな収集担当がいる図書館があったら、とんでもないなぁ(・∀・`;) なんにも収集できんということになる。不勉強というのか、クラークでしかないというのか(´〜`;)
以前、まったく同じ話を聞いたことがあるなぁ。明治初期の極めて得難い図集をレファレンサーが発見し予算もあるので古書店からとりよせたら、1枚落丁があって、完本じゃないからと収集担当がつっかえしたというもの。アンティーク家具を、キズがあるからと叩き返すようなもんだよ。あきれたことですよ。

それで思い出すのは。バカ製本

かなり以前、図書館業界内の資料保存運動にキョーミがあったことがあり、その際に読んだミニコミに「蘭書事件」なるものが書かれていたことを思い出すなぁ。石山洋御大が上野図書館書庫から発掘したという蘭学書を、蘭学史研究者が国会で喜んで研究していたところ、クラーク司書がきづいて、汚れている・壊れているからとて製本にだしちったそうな。で……。キレイキレイに再製本されてもどってきたきれいな本を見て、その研究者のおどろき・あきれたこと。というのも……。
蕃書調所だかの蘭学者がつけた不審紙が、ぜーんぶきれいきれいに取り去られてしまっていたそうな。これなぞほとんど文化財を破壊しているとしかいえない…。
あるいはまた……。
これも以前、旧千代田図書館の書庫に潜入した折、内務省交付本(戦前の、検閲用納本の正本!)が軒並み、1980-90年代のバカみたいに無味乾燥な諸製本で再生本されてキレイキレイになっているのを見た時は、納本正本がここにあったか、と驚くと同時に、いや、それ以上に、ほんたうに腰がぬけるほどあきれ果てたことですよ。
予算がなくてなんにもしなかったりできなかったり、あるいはまた完全にクラークないし労働者としてなにもしないほうがまだマシ。中途半端に予算やヤル気があるが知識は中途なクラーク司書がイチバンいけないことをすると、思ったことだった。これも同様に文化財破壊。

追記(20101021)「珍説・資料保存」を読まれよ

1980年代型資料保存論が現実の図書館活動にネガティブな影響を残したことについては、こちらの拙ブログ記事をぜひ読まれたい。

珍説・資料保存
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20051008/p3

図書館業界で資料保存を呼号する人々を見るといつもその要素技術ふりまわしの目的意識なし頓珍漢ぶりに鼻じらむことになるのた(*´д`)ノ
図書館学に「館種」なる概念があるやうに、館ごとに目的や使命はことなるし、じつはコレクションごと(generalやspecial、あるいはreferenceとか)に目的がことなってくる。なんどもいうが、おなじ本でも、special collectionの一冊であれば、大切に原装保存せねばならんし、貸出文庫用であれば、バタバタにすりへらして、ぽいっと廃棄してかまわないわけで。あるいはまた、ただのgeneral collectionだったのに、たまたま内務省からの払い下げだったために、後世、内務省委託本として、戦前期検閲の一次史料として落書きでしかなかった書き込みが大切になることだってある。
おなじ資料でも、そういった文脈の変化をよみとり、適宜の措置をとるのが司書なのであって、バカみたいに禁複写のラベルを機械的に貼ったり、「落書き」があるから「落丁」があるから、と、機械的な判断しかしないならクラークでしかないよ。