先週の飲みでの思いつきメモ
普段から感じてゐることを言ったんだけど。ってか、これはある人に、違う表現形で言はれたコトのリフレインにすぎないんだけれど。
英米、とくに米人が開発したレファレンス・サービスの本質と、日本で参考調査とか相談業務として考えられていることが、外形はかなり似ているし、実際、日人は米人をサル真似*1しようとしているにもかかわらず、サル真似のゆえか、本質がつねに違うものになってしまっている。
どこがどーちがうか。
ひとことで言って、米のレファというものは、
わからない人がわかる人になるカラクリ
なのだ。日のレファは、
わからない人がわかっている人に聞くという図式
として司書にも利用者にも理解(誤解)されとる。
にゃにがにゃんだかわからん、ってか(σ^〜^)
では。
この文章はおちゃらけヘンテコな日文(ニフォンゴ)で書かれているので、読者の99パーセントは日人であるといふ前提であなたに問いかけてみむ。
問題
- ある日、reference librarianに、ある雑誌の所蔵をきいたら、ちゃかちゃかと調べて答えてくれました。次の日、所蔵不明雑誌100件のリストを持ち込んで、調べて、と頼んだらやってくれません。このlibrarianは、日によって態度をかえる気まぐれな職員なのでしょうか、それとも、それなりにまともな職員なのでしょうか?
- 閲覧室で本を閲覧すべきなのは、司書ではなく閲覧者です。では、参考図書室で参考図書を引くべきなのは参考係の司書でしょうか、それとも閲覧者でしょうか?
- Reading roomで、library collectionをreadすべきなのは、userとlibrarianのどちらでしょうか? ってこれは、librarianが読書指導や自分のおサボりでreadすることもあるかもしれませんが、本来的にはuserです。では、
Reference roomで、reference collectionをreferすべきなのは、userとlibrarianのどちらでしょうか?
答え
- それなりにまともな職員といえませう。もちろん、かはりに所蔵の調べ方を教へてくれなければきちんとした職員とはいへませんが。
- ひっかけ問題(もしかして、参考図書室で参考図書を使うべきなのは参考係員かと思ったでしょ(σ^〜^))です。答えは3におなじ。
- Reading roomとは、userがreadするから、readの名詞形+roomなのです。Reference roomも、userがreferするから、referの名詞形+roomの部屋なのです。実際、英国の図書館には、reference collectionはあっても、reference librarianなるものは米国と異なり居ないとのことです。Referするのはuserなのです。対面のReference 担当がいたとしても、それは、userへの手助けが基本なのです。リーディング担当の司書が、来館者になりかわって本を読んぢゃったら、おかしいでしょ(σ・∀・)
応用問題
- 最近、日本のレファレンスサービスの専門家、斎藤文男先生が、しきりに「セルフ・レファレンス」という概念を提唱しています。けれども英語の"self reference"という熟語は、心理学にある全然ちがう概念のようです(哲学にも別の意味であります)。また、肝心要の米国図書館情報学にも、そのような熟語はありません。では斎藤文男先生は、徹頭徹尾まちがったことを言っているのでしょうか?
応用問題答え
- 日本図書館情報学が米国図書館情報学の現地版でしかないのであれば、まちがった術語で、使うべきでない、ということになりますが、斎藤先生は二重に間違うことによって結果として正しいことを提唱している、と見るべきです。ここで二重に間違うとは、1) フツーの日人司書と同様に、reference workをlibrarianしかしないことと誤解しているが、2) 一方でuser自身がreference toolを使う図式こそが必要ということ(米国では初手からあたりまえのこと)に(遅ればせながら)気が付き、3) 1)の誤解を正しいものとして疑わないままそれを修正すべく、レファレンスに「セルフ」をつけてみた、ということ。
ところで、もっと深刻な問題1、2、3
指定管理者化への防御
むずかしい質問に答える仕事を、外注化・指定管理者化への防御として出した図書館があったけど、アタマのいい人ならすぐ気づくように、むずかしかろうが簡単だろうが「質問に答える仕事」はreference librarian(日本語でいうレファレンサー)の主たる任務ではないし、主たる任務だと答えた瞬間に、その個人にだけ瞬間的利益しかうまない役務は、公務にふさわしくないとゆーことで、有料化か業務停止へまっしぐら。
誤解とはいへ
要するに日本司書集団が勝手に誤解しとるだけなのだけど(それは斉藤文男先生も同じ)、日本(の司書集団)全体で誤解しとる場合、それを誤解というべきかどうか、なやむなぁ(*゜-゜)
日本人民のお役所依存性ないし日本役人の「無定量の奉仕」精神のゆえかもしれんしなぁ。ただの誤解でないこのような国民性・風土が原因の場合、誤解といっていいのかどうか。
文明論的問題
米国のレファレンス・サービスと、日本の図式の違いについて書いたけど、「あゝ、日本人司書は親切だなぁ」だとか、「米国はなんでも自己責任でけしからん」などと思ってはいけない。
いちばん困るのは。
最初に「わからない人」が、日本式レファレンス・サービスを受けていると、いつまでたっても「わからない人」のままであるという点だよなぁ
(まともな人が何かわからなくて)図書館にいくと、それ以後、わからないことが自分でわかるようになる米国と、同様なニーズで図書館にいっても、職員に正しい回答を求め、職員もまた与えようとする日本ではトータルとしての結果がぜんぜんちがう、ということに。
業界小話
よく、職員のレファレンス回答、ここが間違いという話があるけれど、はっきりいってアタリマエで、特に日本の司書は専門ジャンルを設定しとらんので、シロウトがreference toolを使っているにすぎん。専門家がreference toolを使えば、よりよい答えが出るのがアタリマエ。レファレンス回答に本当の戦場はないんよ。