書物蔵

古本オモシロガリズム

レファレンス・ライブラリアンの過去と未来

日本レファ革命いまだならず

近年あるオニャノコが言っていた話なンだけど…
その子が司書課程をとったら、レファレンス・サービスといふものがある、と聞いて、びっくりしたのだそうな…
いや実に、わちきも大学時代おなじようにびっくりし。でも、その時から状況はかわってないのね(=゚ω゚=)
ことほどさように、日本国民にはかようなサービスは縁遠い、というか存在せぬものなのである。
てか、結局、わが国にはレファレンス・サービスなんて最初から最後までないのか(゚∀゚ )アヒャ
と言いつつ…(*゜-゜)

図書館帝国の没落

ギョーカイにとって一見、エラク景気のわるい記事を読んだ( ≧∇≦)ノ
・石松久幸「今、アメリカの大学でライブラリアンと呼ばれる職業が絶滅しつつある:デジタル化がもたらしたもの?」『出版ニュース』2187 2009年9月下旬号 6〜10
米国の大学図書館の例。石松氏はカリフォルニア大学バークリー校東アジア図書館日本部長さん。
むかし(1980s-90s)はレファレンス・カウンターにお客が並んだもんだけど、いまは来ないし、来館者もレファレンス・ブックを見ていない、というもの。
自分も書き物で、レファレンス・ブックをつかわないでちゃんとできてしまった。だから。
レファレンス・ライブラリアンなんて、消えてなくなっちゃうだろう、というもの。
なるへそ(゜〜゜ )
現象の記述としては正しいと思う。けど、構造を記述していないような…(σ・∀・)
ツッコミどころがあるような気がする。
たとえていうと、書いているヒトがなんだか重力にとらわれている感じ。地球連邦というか銀河帝国の国民のような…

司書はすべからくニュータイプとして覚醒せねばならんのでアル(`・ω・´)ゝシュピ

ジオン大君やハリ・セルダンもそういったとか言わないとか…(・∀・)ニヤニヤ

その記述自体にヒントが(σ・∀・)σ

記事に同時に記述されていた事実で、おもしろいことが2つある。
ひとつは、学生がネット資源をかちゃかちゃ検索しているということ。
で、だれでも簡単に思いつくのは。
ブックをリファーする案内人は不要でも、ネット情報資源のリファーの案内人は必要なのでは、ということ。
つまり、レファレンス・ライブラリアン自身がネットの中に這入っちゃえばいい。
これは、わちきの数年前からの持論なんだけど、

Q&Aサイト、質問サイトにレファレンス・ライブラリアンが答えるようにすべき

だよ。
もちろん、どのライブラリーのどのライブラリアンがどーゆー資格・権限で答えるか、といった実務上の問題はあるけど、原理的、長期的には、そうしないと確実にレファレンス・ライブラリアンという職種は消滅するねぇ。

アメリカ様は、1950年に「としょかん」でない、「ずしょくゎん」だと思い出させてくれたのに…

この節はカット。論旨がズレちゃう(2020.1.30)。要するにアメリカ人は初手からメディア横断的だったということ。

けど、思い出してほしいことが2つある。
そもそも、ライブラリー、ってのは冊子の印刷本の集積(のみ)ではない、ということは、アメリカ様がきちんと教えてくれたのではなかったか。
昭和20年代の、CIEのキーニーさんやら図書館使節団やら、それらの結果としての1950年図書館法第3条に
「図書、記録、視聴覚教育の資料その他必要な資料(以下、図書館資料という。)」
とあるように、図書館資料ってば、デフォルトでメディアミックスであったはずなのだ(もちろん、1940年代の技術水準では、紙が主体ではあったが)。それが、日本ぢゃあ1970年代の貸出路線で、あたかも小説本の置き場所のようになっちゃって。ナトコ映写機ってしっとる? フィルム・ライブラリーに県立図書館が指定されていたのはいつまでだっけ(*゜-゜)AVはデフォルトで図書館のものだったのだよアメリカ様の時代では(σ・∀・)
だいたい、明治初期、開明官僚によるライブラリーの訳語は、「としょ・くゎん」でなく「ず・しょ・くゎん」、つまり、チャート(図)とブック(書)のやかた(館)だったのに、いつのまにやらブックの館になっちゃったようなもんで。

客が並んでいるところにカウンターを!

ここしばらくは、ハイブリッドでやって、コレクションもライブラリアン自身も、ネットに這入っていくということでいかがか。
まずはライブラリアンが先にネットに入って(だってお客がもうそっちでレファレンス・クエスチョンを出しているんだもの)、しかるのちに徐々にレファレンス・コレクションがネットに形成される、という発展段階になるとみてよいだろう。
わちきはね、

客のいるところで店を開くべき

だと思うよ。
Q&Aサイトには、答えのない(参照)質問やイー加減な答えがついとる(参照)質問の山ではないか。これはみな、並びっぱなしのユーザーではないか。で、参照質問とは、レファレンス・クエスチョンのmy漢語訳ね。

いま、出て行けば「アットーテキ」

一度、電脳せどりの成立根拠について書いたけど、ネットの世界ですら、ヒトというのはたこつぼ的な発想しかできない。知っていること以上に知ろうとしないし、知り方自体わからない。ブラウズすることは(それこそブラウザで)猿でもできるが、リファーするのはあくまで人間さまの主体性にかかってきてしまふ。なのに、主体的になんでもできるヒトなんてーのは、そうそういない。
そこに、「レファレンス・ライブラリアンの生き残りの途」があるのでは(σ・∀・)σと、電脳せどりにからめて昨年触れてみた。
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20081014
情報を、ただ論理のみによって排列したり、学問ジャンルの悉皆排列などという(一般分類表)、ある意味バカげた、専門家なら絶対しないようなことをしてきたのが、ライブラリアンだったわけで…
それが必要なのぢゃネットには!`・ω・´)o
あと、インターネットはまだ半分しか中身のない洞窟だから、個人が持てないような紙資料群を背景にもつレファレンス・ライブラリアンは、(本物の専門家には負けるが)かなりイイ線を保持できやう。
それに、専門家がいないジャンルでは、

アットーテキぢゃないか我が図書館帝国は!(  ̄▽ ̄)

とくに日本の場合、ネット資源が英語圏にくらべヨワヨワしい。それは、ウィキペディアで同じ項目の英語と日本語を比較すればわかる。日本語圏においてこそ、いまだネット上で勝機はある。

レファレンサー(referencer)宣言!

けれど、日本語ネット界でレファ資源がヨワヨワであることは、それこそレファレンス・ライブラリアンが進出すれば、早晩克服さるるであらう!
ん?(・ω・。) それぢゃあやっぱすライブラリアンは消えちまうだろうって(  ̄▽ ̄)
そうなり(σ・∀・)
そして、レファレンス・ライブラリアンは、リベル(本)といふ重力からときはなたれ、英語圏においても「レファレンサー(referencer)」と呼ばれるようになるのぢゃ(≧▽≦)ノ
となったら、情報社会(information society)、サーチャー(searcher)に続く、情報学で3つ目の日本語英語の英語化ではあるまいか(゚∀゚ )アヒャ
(つづく)