書物蔵

古本オモシロガリズム

ハウスからライブラリーへ貧者を移送せよ 2

1年まえの「Public library の英国モデル」つづき
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20070105/p2
で、最後に森耕一先生の1966年の世界図書館史本を紹介したのだが。孫引き主体なれど、これがまたイイのだ。
この本には、英国で公共図書館法が成立した経緯が書かれているのだが、それよりも重要なのは、「法成立の背景」(p.142)として、背景というよりも、

図書館法成立という事実にどのような意味づけを現代の英国図書館史学研究者がしたのか

について書いているところ。
「図書館法を成立させた、その原動力がどこにあったかという点について、二つの見解があります。」
という。

民衆が求めた…? そんな都合のいい…

(出版革命や職工学校図書館によって)図書の価値を知った下層中流階級および労働者階級が、公共図書館の真の創始者でもあった。(略)かれらの圧力なしには、一八五〇年の法案は法律とはなりえなかっただろう」と主張するもの(サヴェージ説)。
いや、そんな民衆からの要求なんてものはなくて(マリソン説)、「公共図書館は、そのすべてを個人のイニシアティヴと熱意に負っている」とする説(ケニオン説)。
で、史家マリソンが下院の特別委員会報告書を分析した結果は、「社会政策的な考え方が一貫して流れていることを示してい」たと、森耕一は紹介している。
結果として、森耕一は、「民衆がみずから求めたのだ」という耳ざわりのいいサヴェージ説をしりぞけ、史料からいって単なる社会政策でしかなかったというマリソン・ケニオン説に軍配をあげた書き方をしている。

事実と、価値(希望)との分離

もちろん、森耕一にあっては、住民に図書館ニーズがなくともかまわず掘り起こすのが正しい、といった方向に論理が展開されていくのだが(それはそれで、ある意味正しいが)、森耕一の偉いところは、きちんと論争は論争として両説を紹介し、決して耳ざわりのいいほうに飛びついていないということだ。
たまたま内田樹先生のブログのエントリにもあるように、人間っちゅーものは、自分の都合のいい解釈のほーへと引き寄せられていくからのぅ(*´д`)ノ
森, 耕一 (1923-1992) ‖モリ,コウイチは関西図書館界の、ある意味「かなめ」たる京大の図書館学講座で、きっぱりはっきり進歩派・左派ながら、きちんと事実は事実として自分の価値と分離して本を書いていたというわけ。

価値中立という価値

現在の自分の価値から、過去の事実を伸ばしたり縮めたりするようなことを、以前の関西系の図書館学者はしていませんでしたよ、と言いいたいわけだよわちきは。
いや川崎先生のことを言っているのではありません、伊藤昭治先生の、志智嘉九郎論を言っているのです。
もちろん、価値中立だってひとつの価値じゃないか、といわれればそのとーり。
でも、それが学問というものじゃないの。そうでなければ、エッセーや評論と称するべき。