書物蔵

古本オモシロガリズム

スメラ文化運動研究の先行文献について

いや実は、つぎの文献を手に入れたのだo(^o^)o

  • 森田朋子「スメラ学塾をめぐる知識人達の軌跡:太平洋戦争期における思想統制と極右思想団体」『文化資源学』(4)(2006.3)p.85-92

読んでみたけど…うーん、スケッチというか素材集(゚〜゚ )

このお人は

著者は千葉大に在籍とあるが、中部の同姓同名の日本史の学者さんは同名異人さん? ちょっと真面目に批判してみますが… まぁあんま怒らんといて。学術ならばね。

スメラ文化運動の基本的性格

最初に、スメラ文化運動*1は結局なんだったのか、についてだけど。
(森田説)
スメラ学塾を、「「下から」の」「思想統制」運動であり「決定的な役割を果たした」というようにまとめちゃってる(「はじめに」より)(^-^;) うまくまとまんなくて、よくある言説で素材をペタペタとくっつけちゃった、って感じ。こーゆー場合、「うまくまとまらんかった」って投げちゃって、ムリにまとめず、「これは研究ノートでございー」ってしちゃったほうがいいのでは。
(書物蔵説)
オタどんの連載を読んだわちきの考えでは、

スメラ文化運動とは、軍事最優先、日本主義のもとで圧迫された文化運動や欧州嗜好が「狂い咲き」したもの

に見える。
もちろん、こーいった抽象的な意見は、あまり実証から直にみちびきだされるわけじゃないから、ちがう、といわれればそれまでだけど。ただ、彼等が使っていた「日本世界史」とか「戦争文化」という今では(おそらく当時でも)すわりの悪い概念は、彼等にとって是が非でも、必要な発明だったのだろーと思う。

統制の客体としてのスメラ

スメラ運動はむしろ民間の、思想警察の客体でしかないわけだし(だからこそ特高月報にでてくる)、自由主義者を見つけてあげつらうというネガティヴ・キャンペーン型の運動じゃなくて、彼等なりに正しいこと(まぁ、今となってはトンデモだけど…)を新たにやろうとしていたポジティヴ型の運動だったわけだし。あんま、「統制」という概念はあてはまらないのでは。

スメラの果たした決定的役割とは

また、スメラをリードしたインテリは「下」では全然ないし(民とか野といえるかもしれんが)、当時、「決定的な役割」はむしろ、ぜんぜん果たせなかったといえる。
スメラ学塾が「決定的な役割」を果たしたのは、<大東亜戦争下の大日本帝国の、メインストリーム>じゃ全然なくて、まるっきり正反対、<平和国家日本国の、サブカル>に対してだったという皮肉。

スメラ文化運動は、戦時日本主流文化になんら寄与し得なかったが、戦後の日本下位文化にミユ大陸説の紹介者として決定的な役割を果たした。

といえませう(書物蔵見解)。だからこそ、わちきもオタどんの連載が妙にオモシロく感じられるという次第なわけで。

文献注が不備では…

で、森田女史が使った史料は、どうも次のようなものらしいのだけど… よくわからん。
注のなかに分散しとるものを拾ってみたけど…

また『スメラ民文庫』とかを参照しているらしいのだか… 本文で「何々であった(注)」とあるから注を見ると、そこには文献的根拠はなくて、関連する違う主題のことが述べられていたりして、うーん。
あと注14の文献ってこれ↓のことかしら? 書誌の記載が足りないのでは。
 日本映画の回顧上映 : 日仏交換映画祭記念. -- フィルム・ライブラリー助成協議会, 1963
いちばん困るのは、「複数の遺族の証言」(p.86)ということをとり上げていながら、その詳細がよくわからないこと。

でもまあ

類縁機関としてジャヴァで活動した「チハヤ学塾」とか、昭和20年6月に旧スメラのメンバーが組織いしようとしたという「九州革命政府」のことは初耳であった。ただ「政府」のずっと前、昭和19年2月23日にスメラ学塾は解散しとるみたいだから、「スメラ学塾のメンバーは、九州を独立させ、新たな政府を興そうとした」と、直にスメラと「政府」をむすびつけちゃってるのはどうかと…。

それにつけても

オタどんは正統的な手法を使っているなぁ。

おまけ

ニチガイのツールにこんな記述が(物故者)

仲小路彰

「地道な研究家として出発したが、のち国粋主義運動に関与した。」

小島威彦

「戦前に世界創造社、スメラ学塾などを創立し、戦後、公職追放される。」

*1:わちきの造語。スメラ学塾、スメルクラブなどの文化・思想運動を総称して、ここではそう呼んでおく。略してスメラ運動とかスメラ(・∀・)。