書物蔵

古本オモシロガリズム

組織人と研究家と:司書の「業績」ウラ・オモテ

しぶやさんについてつづき

史料:耕治人「小さな物語」

渋谷について、現在読むことができる研究は、石井の講演録(1998)が唯一。けど席上配布されたらしいレジュメの情報(書誌など)が補足されてないんで、石井が使用した史料がいまひとつわからない。
講演録から察するかぎり、渋谷に関して使用した史料はつぎのようなもの。
1) 横浜市立の月報
2) 県協会の月報
3) 石井が聞いた伝聞情報
4) おそらく3)にもとづく私小説耕治人「小さな物語」
5) 人事に関する公文書?
明治学院で同人誌仲間だったのが耕, 治人 (1906-1988) ‖コウ,ハルト(私小説家)。
彼の憶測によれば、戦後、渋谷は自分の戦前の話を周りの者に言っていなかったのではないか、とされる。じつは、耕のこの憶測が小説の題材になっており、実際それを書くことを渋谷に勧めたとされるが、そそれは果たされないまま渋谷は死去する。そして、その死後、この小説が書かれることになる。
もちろん、これは私小説であり、場所や人名はみな仮名になっていて、これのモデルが渋谷国忠だということを石井トン先生はどうやって知ったのかはこの文献では不明。おそらく、館界内の伝聞情報によるのだろう。
もちろん、
6) 『図書館雑誌』関係記事(渋谷執筆論文、渋谷の人事情報、追悼記事)
はキホンではある。これについては作成中。

組織人か研究家か

司書の業績ってのは、A. 実務者・組織人としてのものと、B. 研究家・書誌家としてのものの2つに分けて考えられ。
渋谷は図書館史上、まず第一に読書会論争(1943、1960)の論客として、第二に参考事務の戦前の紹介者として名を残している。
が、石井先生はもちっと人物寄りの記述をしている。
従来、渋谷はBの側面でのみ少し有名であった。地元?的には、晩年の萩原朔太郎研究で有名といってよいだろう。Bとしてさらに県協会報における論説を加えるだけでなく、Aの、人物伝を加味したのが石井先生の講演のオモシロ味。
石井先生はだいたい次のようなことを言っている。

渋谷は共産主義者だった。特高につかまったこともある。横浜市立図書館の論客で鳴らしたにもかかわらず、そこでは館長になれなかったため、前橋市立へ移って館長になった(昭18)。戦後もレッドパージにひっかかりそうになって、あらためて転向した。それから、群馬県立図書館の設置運動にかかわったが、その初代館長になるはずだったのに、なれなかった(昭28)。そのため、萩原朔太郎研究にのめりこんだ。(要旨)

石井先生のを読むと、「有能でまじめな司書が、当然、館長になってしかるべきなのに、その左翼思想の故か、あるいは、館首脳・首長部局の無理解の故に、最後には趣味へ奔った」という心証をもつことになる。で、まあ、それも一定程度、正しいのだろうけれど、これはむしろ人民史観的バイアスだろう。耕の私小説を読むとまた、微妙にちがう感想をもつ。
人間の情念の発露というか。
同格の友人から見た渋谷像が小説にはかかれている。
ただ、石井先生も耕の私小説につられて、横浜市立の<館長になれなかった>こと、群馬県立の<館長になれなかった>こと、にかなりの重きをおいた記述になっている。
また、晩年の萩原朔太郎研究にも、耕同様、それよかやるべきことが別にあったぐらいのことを言っている。耕にとっては、「文学の実作をせよ(=私小説をかけ)」、ということになるだろうし、石井先生にとっては、「図書館本をまとめよ」、ということになる。
そして、わちきもまた、そう思うのであった(*゜-゜)
もちろん、図書館雑誌の追悼記事(1970.1)には、前橋にうつって以後の、「文化編纂者」としての偉人ぶりが記述されている。