書物蔵

古本オモシロガリズム

最近の高橋健二研究?

マイブームな「満洲開拓読書協会(満読)」ネタだけど、関連の翼賛会のほうの読書運動についても調査中。
それで、文化部長さんだった高橋健二についても調べねば、と思っていたところ、そういえばと、高田恵理子『文学部という病』(ちくま文庫を買ってきて読んでいたのだが、だいたい読了す。
この本、文学史の本のフリをした文学の本だねぇ。事実関係よりも、高橋健二の生き様を文学的に評論している。それも、高橋健二やそれに代表される日本ドイツ文学がいかに文学としてダメなのかをねちっこく(いかにもドイツ風?)批判している。
てか、これは、著者自身が文学部の独文という凋落分野を選んでしまったことにたいする憤りの本なの? 読後感が不思議な本であることは確か。
小谷野先生みたいに「覚悟を持った嫌われ者」路線でいくつもりなのかしら? にしては、かっとび方が足りないのでは。
で、教養主義旧制高校的な教育システムが批判されてるんだけど、じゃあ何がいいのかのヒントがないのが、これまた文学っぽい。著者の専攻が教育学や歴史学ならこうはいかん。
ドイツ文学については、さいきん、ギュンター・グラス武装SSだったって「告白」したそうだけど、『週刊読書人』を読むと、戦争末期に召集されただけだから、これは国防軍に入るのとほとんど変わらんね。文学として「告白」の意味はあっても歴史としては意味ないなぁ。
それはともかく、この本では高橋部長の読書運動認識はわかんなかったけど、この本に触発されて他の本を調べたら高橋健二の読書運動観がわかったという点で役立った本だった。

ついで?にこの本の瑕疵:花森安治,「決意」という語,杉森久英の回想

全体が文芸評論で、文学史じゃない(とわちきは見る)んで、いろいろ言ってもしょうがないんだけど。
あるところで、高橋健二のまちがい(世間一般の誤解でもあったらしい)をそのままひきうつして「欲しがりません勝つまでは」の作者を花森安治にしちゃってるけど、これってしばらくまえまちがいだって訂正されてた言説だよ。ググったら、山中恒『子ども達の太平洋戦争』(岩波新書 1986)に書いてあるって。昭和17年末の「大東亜戦争一周年・国民決意の標語募集」だって(未確認)。
あと、「決意」って熟語をつくったのはある独文学者だって書いてあるけど、『日本国語大辞典』をひくと、ふつーに江戸期や明治の用例が載ってるんだが…。流行らせたのは独文学者ということかな。
それから、戦争時の高橋健二について

当時の関係者が高橋文化部長に具体的に言及したほとんど唯一のものである右記の文章は(p.132)

と,井上司朗『証言・戦時文壇史』をひいているけど,じつは,当時部下だった杉森久英が書いている(『大政翼賛会前後』)。みつけられなかったみたい。
関係ないけど,著者によってどちらかというと批判される対象として出てくる戦没学生のひとりの一節がココロに残る。
鷲尾克己という特別操縦見習士官で特攻した人のもの。当時の軍隊の馬鹿馬鹿しさをみとめて。

特操に誇りなし。伝統なし。良き運用なし。良き指導者なし。いたずらに石中の玉をも曇らすのみ。曽我いわく「こんな空気の中で張り切ってもだめだ」いたずらに物笑いとなり狂人扱いせらるるのみなり。
狂人や可なり。物笑いや可なり。多衆の物笑いとなり,狂人となる,また男子の本懐ならずや,再考せん。

『第二集 わだつみ』岩波文庫のp.256にあるという。
戦後の批評空間で,あえて狂人となったのは呉智英先生だとわちきは思うよ。で,笑われる前に自分から笑い,それにつられてみんなを笑わせた。
わちきなぞ,鷲尾くんの(おそらく)友達の曽我くんみたいなものだね。「○○○に誇りなし。良き運用なし。良き指導者なし。こんな状況の中で張り切ってもだめだ」
おそらくこの鷲尾くんのスタンスと,中田邦造のスタンスはとっても近いぞ。
中田邦造を非難するのは,こりゃー至難の業ですなぁ。