書物蔵

古本オモシロガリズム

「よむ」の語誌

「よむ」というと、何をよむか、となり、そりゃあ現在では、テキストを、ということになるだろう。
テキストを読むことを、漢語で「読書」というしね。
しかし、やまとことのはたる「よむ」は、もともとテキストがやまとのくににない時代からあった動詞なわけである。
ということから「よむ」の語誌文献を調べてみたところ、9件ほど見つかったのだが。
ちょっと問題なのは、9件のうちいちばん面白い議論を展開している兵藤裕己説(1990)が語誌の専門書誌や、汎用雑誌記事索引で見つけられないことである。
ん? なんでわちきがそんなもんを知っているのかってか?
魔人ぢゃよ。文献魔人に教えてもらったのぢゃよ。それはともかく。
本居宣長以来「よむ」はもともと物を声を出して数えることだということになっているんだ。「月読みのミコト」という神様の名前、それが文字のない時代によむが使われている例なんで、月齢を声を出して数えるということになっている。宣長はさらにテキストを声を出して読むのもよむなのだという。うたをよむってのも、心の中に出来上がったテキストを読み上げているのだと。
しかし、兵藤説だと同じ月をよむんでも、数えるのではなくて、もっと解釈するというか、少なくとも声を出して数えるという意味がコアでないという解釈がなりたつという。「太平記読み」なんていう用例があるように、テキストがない物語を口演するようなものでも「よむ」というのは、確定されたテキストがあるんではなくて、太平記のお題がアタマんなかにあって、それを敷衍、解釈、講釈しているのではないかと。宣長「よむ」解釈は兵藤にいわせると、あまりに近世的(江戸時代、つまり同時代)ではないかと。
ことの当否は古代中世の用例の解釈が妥当かどうか、日本語学で誰か論文書いてほしい。

敷衍すると

兵藤のいう「題目」はまさに図書館情報学にいう「主題」にあたるなぁと、森さんが座談会で雑誌特集の特集はまさに単行本の主題のようなものなのだ、と連呼しているのを読んで気づいた。
もちろん「太平記よみ」の場合、お題があってそこから敷衍して、ことばが紡がれるわけだが、逆に関連する論文を集めて成立するのがお題、というか主題なわけで、ベクトルは逆さだが、構造は同じ。
うたをよむ、というのも、心ん中に出来上がったテキストをよみあげているのではなく、心ん中に出来上がったイメージを講釈していると考えたほうが自然。

追記

29夜、森さんとこの件で長電話。兵藤は中世文学研究で、『万葉語誌』の古代文学研究とそこが色合いの違いが出ているのだろうと。
そも江戸時代の本居宣長は、近世という後の時代からさかのぼって古代に聖書としての古事記を設定した。そしてそれを定まったテキストとして読解することで国学なる知識体系を創ったわけで。けれど、歴史的事実を見れば、古事記はむしろ中世で忘れられていたうえに、古代においてはまさに口承から適宜、テキスト化され編纂されたもの(たしか稗田阿礼がなんとかかんとか)。それを定まりたるテキスト扱いにする、というのにそもそもの無理ないし間違いがあるわけだが、そこがそれ国学イデオロギーなわけである。宣長は漢語を分析枠組みにつかうとてっきりカラゴコロに陥るぐらいのことを言っているが、あまり宣長に依りすぎても、国学イデオロギーに陥るというところか。

追記2 なにやら一部にウケているので

このエントリは本体が別にあって、それは連載《大検索時代のレファレンス・チップス》。
その第8回【言葉の来歴(語誌)を調べる方法――附・用例検索の方法、長期トレンド検索法】。
「ある言葉の起源や意味・用法などについての変遷(語誌)」を「合理的な検索」方法で調べるというもの。例は「読む」という動詞。
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