書物蔵

古本オモシロガリズム

在野研究の利点と欠点を雑学研究との対比で

在野研究者の列伝、荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍、2016)の影響か、ポストドクターの激増の影響か、在野研究といふ言葉がプチはやり(´・ω・)ノ

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これから在野研究も一つの道として考えていきたいとのこと。 / 1件のコメント https://t.co/rgBZAje8iQ “在野研究一歩前|本ノ猪|note” (1 user) https://t.co/459YBPEQTA]

本の周辺で働きながらやる手もあるよといふてをいた

https://twitter.com/shomotsubugyo/status/1092068651262341120
で、違う方向に進んで就職しちゃったんだが、当時、ネットのないー正確にはNACSISなどが成立してたー時代のこととて、大学紀要が入手できなくなるのは困る、ってか残念だなぁとは思ひ、さういったものが最低限、見ることができるやうな仕事を選んだんぢゃった

在野・研究とは

在野=大学教員でない
研究=論理や文献実証で考える(サーチをreする)

とすると、在野・研究のうち「研究」に必要なのはカネというより時間とアタマの余裕で。実家の貧乏やその他の理由で在野へ進む場合には、仕事の選び方かなぁ。繁閑のある仕事などにありついたりすると、スキマ時間がとれたりする。
趣味と研究の間だけど、例えば雑誌コレクターの鬼、福島鋳郎は、古書展に通うために職業も昼間は暇な警備員を選んだーーん? さういやわちきも警備員やったことあった。友人の森さんが一時パン工場で働いてゐたやうに、あんまり頭を使わない(体を使う)仕事もよいかもしれない。

大学に籍がないこと=図書館利用上の不便

在野、つまり大学教員でない不利益は、主に図書館の利用権限。以前はなんとしてでも大学内にツテやテキトーポストを確保して、大学図書館サービスが受けられるようにしなけりゃなんなかったが、最近はむしろ在野でもなんとかなるようになってきた、といふか緩くなってきたので工夫すればなんとか。ま、その工夫のやり方はあるが。
キーワードは古本なのだが、在野研究で古本屋と公共図書館がどう使えどう使えないかはまた別項に(´・ω・)ノ

実務家に転じた場合のマイナス

一方で在野研究で重要なのは「研究」そのもの。つまりサーチをreする、きちんと調べ、きちんと考える、という点で、だんだん劣化しちゃうこと。
職業生活に入ると、これはあらゆる実務(大学教員実務もそう)は、経験的にはしょって考えたり、あるいはわざと考えないルーチンとして遂行される部分が大半なので、きちんと調べ、きちんと考えることができないアタマになっていく。自分がもと研究的大学にいたとしても、身過ぎ世過ぎのシゴトと掛け持ちでちゃかちゃか効率よく廻していくと、いつのまにか、きちんと調べ、きちんと考えることができなくなっていくから要注意なのだ。
以前、例外的にあとから学会などに文献を発表するようになった友人が「同期で入館した際、これはちょっとセンスある、と感じられた人が十数年後にあったら、無残になってた」と言ってたことがあったなぁ(*゜-゜)トオイメ
「オレって才覚あるよね」ってなタイプで、実際に実務家として出世していっちゃふ人がいちばん陥りやすい。
在野研究の初期段階は大学でのハビトゥスを体が覚えているけれど、まわりが職業実務家、家庭実務家、大学実務家ばかりになると、きちんと調べたり、きちんと考えたりする手合い、つまり効率の悪いことにあえてつきあってくれる人たちがいなくなり、自然、正しく(?)効率悪くリサーチできなくなっていくんよ。

趣味と研究

もちろん学問なんちゅーもんに縁なき衆生はそれでいいんだし、身過ぎ世過ぎで入った職業が、発願時の学問の面白さよりも面白くなっちゃえば、それはそれでよいこと。
わちきに言わせれば、もともと学問なんちゅーもんは趣味の極まったものなので、たしかに国民国家は、国立大学などに中産階級の子弟でも研究できるポストを用意してくれたけど、たとへそのポストに座れなくても、本人がやりたければやればいい。ただ有産階級の子弟でないとやりづらいことはやりづらいけど。

欠点としての自由を利点に

ところで在野の利点と欠点に、自由であることがある。これは、研究対象の設定が自由であり、研究方法の適用も自由であるという2つの自由からなる。これがなかなかやっかいで。
大学の学問は知識分野、ディシプリンとセットで、そのディシプリン内には開発済みの手法や工具書、定番のコアジャーナル、学説史をもつ研究対象などがセットであり、大学で専門人(分科学者)として仕事するにはそのセットの中でやるから、そうそう間違わないし、間違ってもどこが間違ったかわかりやすい。よく大学の先生が院生に一見つまらない研究対象を提案したりするのは、学問上の安全策を提示している側面があるんだ。けど。
そういったディシプリンから離れてしまうと、方法でも対象でも自由に設定できちゃうから、わりとトンデモない間違いをふりかざすことになっちゃったりするんだわさ。

在野は自由な分、間違ったままになりがち

たとえばあるディシプリンでは学位とれたような人が出版史や図書館史に参入してきた場合に、わりとトンデモない間違いをしても、そもそも図書および図書館史のディシプリンなどまだない状況なので、ちゃんと批判されづらくなっちゃふ、ってなことがあったなぁ。
間違うこと自体は大学内ディシプリンでもアリ、なんだけれど、在野だと周りに批判してくれる人が得難くなっちゃう。この点、わちきの場合、古本フレンズがおるんだわさ。彼らは雑学家ないし教養人なので、専門分野外でも批判できちゃったりする。
もちろんディシプリン内でやっても間違うことは可能なのだが、全体として直すからくりがセットでいちおうある(だからディシプリンというのだろう)。

対象の自由は在野が上かな

逆に、きちんと調べ、きちんと考え、きちんと批判されるという「研究」的スタンスを護持できれば、在野のほうが、研究対象を大学人よりも相対的に自由に設定できるわなぁ。
井上章一先生みたいに、自分の専攻(建築史ってこと、みんな忘れてるかも)での立場をかなぐり捨てて、まさに興味本位に、美人言説史や、日本人インターコース史を、きちんと調べ、きちんと考えるなんて、なかなかできんのよ大学人は。

趣味人・雑学家と在野研究者

大学で研究に目覚める人もいる一方で、趣味から研究を始める流れもある。ってか初期の西欧自然科学者たち、特に理学系って、たしか貴族の趣味だった気がする。郷土史家なんかも趣味としての研究からはじまっていたりする。結果として大学流れ(在野研究者)も、趣味人上がり(雑学家)も、包括的に在野研究者と呼ばれる傾向にはあるんだが、出自が違うので傾向が異なる気がする。
わちきとしては、大学流れの、きちんと調べる、きちんと考える傾向と、趣味人流れの、自由に対象を設定する、自由に方法を設定するの両方の良さが併さるといいなぁと思っている。
つまり、よい在野研究者がいるとしてそれは。

  • きちんと調べて、きちんと(論理的に)考える
  • 研究対象をディシプリンの慣例から離れて設定できる
  • 研究方法を必要に応じて自由に採用できる

ってなところ。
逆に言うと、わるい在野研究は逆の場合ですな。

  • いそがしさや効率性に惑わされて、きちんと調べない
  • 希望的観測のもとに論理をすっとばし、自説を論理的に検証しない
  • せっかく在野なのにありきたりの研究対象、ないし、ありきたりでもその対象の新しい側面ではない
  • 研究方法の新しく開拓しない

ってとこ。