書物蔵

古本オモシロガリズム

写字生の歴史

いまでこそ皆アホみたいにコピーを撮ってをったり、複写=日本著作権法の話だなどと即断して怪しまないが、その昔、本は筆写するのが常道で。
筆写する人は古代ギリシャではビブリオグラフォス(bibliographos、ローマではリブラリウス(librarius)などと呼ばれ。西欧中世で写字生(カリグフス)は修道院などで本の複製に励んでをったものぢゃ。
本朝でも、版本が江戸時代に流行るやうにはなってをったが。西欧や中国に比べ、写本で流通していた本が多かった。といふのも江戸幕府の(本屋仲間を通じた)言論統制は多分にタテマエ主義で、版本ではダメなものでも手書きなら不問だったからぢゃ。実録(と称するフィクション)軍談などは手書きの写本で流布するのが普通ぢゃった。
「板本にあらねども多く筆耕をして写本おびただしく弘めたり」(俳諧・一字般若、1772)とぞ。「筆耕」は前近代からの言葉。「写本(しゃほん;うつしぼん)」も同様。

明治初年の大学校で…

1869(明治2)年に設置された大学校の職員に「写字生」があり、公文を写し、書史を謄録する担当の判任官(大・中・少の三等級あり)の扱いを受けたといふ。「大写字生」とでもいうのかすらん? ただ官職としては短くて、同年12月17日大学校を大学と改称するにあたりそのままその職員となったが、1871年大学廃止でなくなった。この大中少の写字生は、さながらコピー屋さんが官職を与えられた瞬間かと思う。

職業としてのコピー屋さん

 一般にも「写字を職業とする人」も写字生と呼んだ。1877(明治10)年の『団団珍聞』(25)には「一(ある)写字生が有名の俳諧師の処へ頼まれ古人の秀句を抜萃し漸く書上たるに」などとあるから、単に書き写すだけでなく、秀句の抜萃という判断も一緒に代行していたことがわかる。田山花袋「妻」(1908-1909)には「一つは府庁の写字生で月給十五円」とあり、写字生を役所が月給で雇っていたこともわかる。
 筆耕者、筆耕書とも言った。「傭書生(ヒッカウカキ)も又二名に托し」と仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』(1879)にある。
 「影写本(えいしゃぼん)」などといふそっくりまねした写本技法用語があるのも、彼等、職業としてのコピー屋さん写字生の活躍によるものだらう。
 そもそも江戸時代に、版本(印刷本)で流通させられなかった中味の本(実録や軍記などは検閲を通らなかった)は写本の形で貸本屋などで出回っていたので、テキストに公刊的なもの、ただの私文書・公文書の違いはあったろうが、実は本というものは書き写すのもあり、とはむしろ江戸期を知る人に広く共有された感覚であったろう。東大の史料編纂所などは、そもそも複写を集めるというかたちで史料を集めたのだった。

プレ複写機時代の閲覧

 調べ物のために図書館に登館する閲覧者は自分のノートに抜書きをする、というのが、単に読むという利用者にまけないぐらい多かったようだ。1970年代に貸出運動の一環で、なんでもかんでも館外貸出しできるようになったことや、複写機の利用価格が十分下がった1980年代からは抜書きは廃れた。
 復刻屋さんが、古書価で高い物を適当に見繕って刷れば売れる、という時代もまた1970年代までであった。

電子式複写機の時代

 猫も杓子もコピーコピーになるのが1980年代。この時代の複写サービスについての文献で有名なのは、

  • 池本 幸雄, 坂本 博, 沼田 良. 図書館「破壊」学入門--MuseumかCopy Centerか,新聞雑誌課員の憂鬱 (国立国会図書館における利用の現状と問題点-1-<特集>). 図書館研究シリーズ. (22) 1981.03 p.p65~132

である。

ジアゾ複写機「青焼き機」

1920 (独)ジアゾ式複写機が発明
1937 (米)電子式複写の原理発明 Charles F. Carlson (1906-1968)
1960 (米)Xerox916(普通紙複写機PPC, 1959発売) ヒット
1962 富士ゼロックス社設立
1967 リコー、湿式複写機を発表
1974 電子写真式複写機がジアゾ式を抜いて主流に