思い出したのは、森サンにかなり前に言われたこととのセット。
メディア一般はむしろ、自らをシームレスの現実(プリゼント)自体の代表(リ・プリゼント)として見せようという本能がある。
例えば新聞紙は、誰も、頁があることすら意識しないで―まぁ実際、明治の最初は頁がなかった(1枚の表裏だけだったから)―使うことができるようになっている。
頁づけはあるのに、必ずしも1頁目から順番に読まなくてもよいように記事が設計されているわけである。
(米国流)図書館情報学は、情報をなるべくシームレスに提供しようとする動きであったため――そのための装置の開発は結局、グーグルに行きついた――ため、コンテンツはともかく、メディアへの参照が―進めば進むほど―弱くなる。例えばNDLサーチなどはシームレスさを装うインターフェイスなので(それに成功しているかはともかく)、それが、全国書誌と県立と児童書の総合目録と、目次データとレファ協事例とで構成されているという説明を欠くか強調しないということになる(逆にいうとちゃんと検索するにはそれらの材料から成ることを知っている必要がある)。