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古本オモシロガリズム

ぢーちゃんの逃避行(八月ネタ)

書物蔵
‏@shomotsubugyo

書物蔵さんがJames F.をリツイートしました

わちきの親が北満から最後の列車で途中まで南下した話はしたっけか。それに乗れんかったら、ほぼ死んでたのぢゃ(-∀-;)

書物蔵さんが追加
James F. @gamayauber01
太平洋戦争当時の日本のGDPからくる制約や経済と分離してしまった戦争計画、8月9日の満州について
「GDPと三八式歩兵銃」ちゅうブログ記事を書きましたー…

16:45 - 2015年8月8日
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@shomotsubugyoさんへ返信する

書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo ばーちゃんやその子供らはその、最後の列車のあとの、本当に最後の特別列車に割り込んで途中まで逃げられたんで助かったんぢゃった。後に残された居留民の多く、とくに乳幼児はみな死んだ。なぜわかるかといふと、じーちゃんは乗らずにあとに残ったから(´・ω・)ノ

書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo ソ連軍という津波がやってくる。困ってたら、じーちゃん(といっても当時は今のわちきよりも若いのだが)のところにやってきた満鉄社員が「馬車を出せ」。「どーして?」「最後に社員専用列車を仕立てて南下するんだよ」「じゃ出してやってもいいが、オレたちの家族も」
書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo ところが警察が国境からの乗車許可証を出し渋り、切符はあるのにチチハル(中部の大都市)行きの最終列車に間に合わず…(´・ω・`) あわれ最後の列車は出てしまったのじゃった。
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書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo 「嫩江は電圧が低く、ラジオが聞けない。八月九日のソ連軍の侵攻を知ったのは駅の停車場司令部であった。開戦と同時に私の脳裏をかすめたのは、婦人社員や留守家族をいかに早く安全に避難させるかであった。」(戦後書いた手記から)
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書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo 昭和20年8月、北満――その頃、わちきのじーちゃんは転勤族で満洲内のいろんな所を転々としとったのだが、康徳12年8月には、満洲北部の都市、嫩江(ねいこう;のんじゃん)の運輸会社の支店長をやっとったらしい。
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James F. ‏@gamayauber01 2015年8月8日

あまりに悲惨だったので、誰にも話さなかった、というひとの言葉を聞いたときに判るような気がちょっとだけしました @shomotsubugyo 親が北満から最後の列車で途中まで南下した話はしたっけか。それに乗れんかったら、ほぼ死んでた
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書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@gamayauber01 逃避行のときのことは、祖父からは少し話は聞いたことがあるけれど、祖母からはぜんぜんなかったです(´・ω・)ノ そもそも戦前の話をほとんどしなかった。
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書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo 大尉は「勝手にせい(Как хотите カク・ハティーチェ)」と。つまり、どうやら見逃してくれたらすぃ〜。その後、じーちゃんは哈爾賓をめざして女ばかり40人ほどの日本人を率い苦労して南下したというが、それはまた別の機会に。(じーちゃんの話おわり)
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書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo もちろん日本でなくシベリア。ひとりだけ残されたじーちゃんは、いつも無理難題をふっかけては「できないとコレだゾ」と通訳のじーちゃんにピストルをちらつかせていた嫩江収容所長のセミョーノフ大尉に、「わたしはどーすればいいのか?」と聞いたんだそうな。
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書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo じーちゃんはロシア語ペラペラだったんで、ソ連軍に通訳として使われ「自分は帰れないかも」と思ったらすぃ〜(´・ω・)ノ ある日、「みな列車にのれ」といわれ、日本人の男たちはじーぢゃんを残してみないなくなってしまった…男たちは「帰れる」と喜んだが行先は…
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書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo 職務上の責任を感じて、あとに残ったじーちゃんが、翌日、関東軍のところへ行ったら、「もぬけの殻…(・o・;)」だったといふ。その後、じーちゃんは現れたソ連軍のと交渉したり―じつはじーちゃん、ハルピン学院出なのでロシア語がペラペラ―など、いろいろあったが
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書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo 親の兄弟はその頃、小学生だったが、内地に帰ってから、一度も、当時の同級生に会ったことがないという。
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書物蔵 ‏@shomotsubugyo 2015年8月8日

@shomotsubugyo 嫩江に残された日本人たちは悲惨なものだった。「初め四百人位も居た乳幼児は栄養の補給がなくなり、折から流行した麻疹も手伝って全滅した。」 ということで幼児だったわちきの親も、もし最後の列車に乗れんかったら、「全滅」した400人の乳幼児の一人だったわけ。

monta ‏@monta_neko 2015年8月8日

@shomotsubugyo 自分が乳幼児を育てていた時に「流れる星は生きている」(満州からの引き上げのお話)を読んで、安寧な環境の中でも乳幼児のケアはこんなに大変なのに、、、と読みながら泣きながら授乳してたのを思い出しました。
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