書物蔵

古本オモシロガリズム

岡山県紙二番手『中国民報』の戦後における残存は?

関係者により――おそらく故意に――忘却されたため、岡山市立「動く図書館」路線の放棄と楠田五郎太の流浪の原因となった事件は、戦後、昭和42年まで秘されてをったのぢゃが、その唯一の資料は、おそらく岡山の県紙2番手、『中国民報』ならんとぞおぼゆ。その旨、文献継承に書いてをいたことぢゃったが、なんとたまたま『中国民報』の残存状況につきて言及した文献を見たので、ここに録してをく。

『中国民報』も大体において同様の経過をたどっている。というのは、戦前、山陽新聞社に一組『中国民報』が創刊号より保存されていたのであるが、ある事情から県立図書館に委託してあったところ、これもまた昭和二〇年六月の空襲で館とともに烏有に帰してしまったのからである。
なお、岡山では次のような話を聞いたことがある。戦前、明治新聞雑誌文庫の初代主任であった宮武外骨氏が岡山にきて明治初期の新聞を蒐集していったとき、ある素封家の蔵から『中国民報』の完全な揃いが出てきたが明治三〇年代までの地方新聞まで手を伸ばすには予算がない上に文庫も手狭だというので買わずに帰京された、と。
そしてそのためにその『中国民報』は誰も買手がないために屑同然で売られ、水蜜桃をかぶせる紙袋に化けて散亡してしまったということである。
西田勝「冷遇された資料--田岡嶺雲全集と取組んで思ったこと」『日本古書通信』34(5)=(478)p2〜3 (1969-05)

やはり、である。
「嶺雲の踏査をはじめて第一に痛感したのは、図書館の不備ということであった。」
「第二に強い印象を受けたのは、太平洋戦争の影響である」ということで、