書物蔵

古本オモシロガリズム

取り屋新聞、総会屋雑誌の自分史?

昭和時代を生きた人には、取屋新聞、総会屋雑誌といふのはむしろフツーのアイテムとして常識の中に出てきたものなのである(`・ω・´)ゝシュピ

高岡市政新聞

さっき蔵書の整理でたまたま、こんなんが出てきた。

いま5000千円以上するのぅ。。。( ・ o ・ ;)
これなぞ小学生のときに見たのだが、ここにも終戦直後の取屋新聞社が出てくる。

あゝさうか、わちきは幼少のみぎりに、かように知識をあたへられていたのかぁ(*゜-゜)

と、嬉しくなってしまったo(^-^)o
満賀道雄才野茂のもとに初めて稿料つきのマンガ原稿を依頼する人物というのがこれ。
(稿料とはいっても、映画チケット二枚といふショボさ)

いいなぁ(*´∀`*)
この人物、満賀と才野に、君たちの原稿は媒体に妙に迎合しとる。もっと自分でなきゃ書けないものを書き給へと、とってもいいことを言って去る、とゆー役回り。
もちろん去るのは、広告料を強奪したり、議員の醜聞記事をちらつかせたりした恐喝容疑で、満賀らの目の前でタイーホされるのだ(  ̄▽ ̄)b
ますますいいなぁ(*´▽`)
上記マンガの吹き出しで、

たった二ページしかない小さな新聞

と言ってをるが、まさしくこれが典型例!`・ω・´)oシャキーン
あたかもよし、古書展にて恐喝…ぢゃなかった(^-^;)おつきあいということで抜いた人から巻き上げちまった

  • 『恐喝:恐かつかおつきあいか』(名古屋新報社)

いはゆる総会屋、一枚新聞屋

といった表現がでてくるo(^o^o)
この表現から、こういったものを「一枚新聞」と言ったことがわかるね(*^-')b
もちろん、戦時中、紙不足で大新聞が1枚になったような状況は除くわけだけど(σ・∀・)
いまウィキペの「まんが道」の項をみると「作者曰く「実話7割、フィクション3割」とのこと」とある(σ・∀・)σ

満鉄の総会屋対策を目撃した少年

かやうに忘れていたのは「まんが道」だけのことでない(。・_・。)ノ
たとへば拙ブログの初期のころ、青木実てふ人物に言及したことがある。
彼は今、満洲文学者の有名人てふことになっとるが、もちろんのこと最初はただの少年だった。
その少年が、ひょんなことから満鉄の給仕に採用されて、実は満鉄図書館に勤めるといふのは、こりゃ図書館史マニヤなら誰でも知っとることであらう――ん?(・ω・。) そんなこと誰も知らんってかc(≧∇≦*)ゝアチャー
じつはこの少年、最初、馬場先門あたりにあった満鉄の事務所に勤めたので、満鉄の取屋・総会屋対策をつぶさに見ていたことを、今頃になってあらためて思い出したよ。

満鉄に入ったのは大正十一年六月,日給四十五銭であった。会社は馬場先門の商工会議所のすぐ後ろの赤煉瓦三階建てで,最初は経理課の給仕で,次は二階の庶務課受付だった。記憶に鮮かなのは,毎月定った日に,右翼,アナキストを問わず,二,三十人やってくる日があった。中に野依秀市などもいた。その日だけ出社する嘱託の小林源十郎という顔役が,一人一人応接室に呼びこんでは相手に応じて金額を変え,金一封を握らせて帰すのであった。(p.199)

青木さんの「内地・外地」を7年まへの3月17日に五反田で買ったのだった。
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20060317/p1
「右翼,アナキストを問わず,二,三十人」が毎月きまった日にやってきたといふのがいいね。去年フィーバーした喝秀こと野依秀市もすでに拙ブログに言及されていたとは全然意識せなんだ(・o・;) 「嘱託の小林源十郎」って誰だろ(σ・∀・)σ