書物蔵

古本オモシロガリズム

序について・跋とは何か(承前)

ぐろりやさんからのお知らせで、ちと参照してみたら、『リンボウ先生の書物探偵帖』の、7.「跋」等(p.140-)にかような記述が。

リンボウ先生の書物探偵帖』

林望氏の師匠、阿部隆一氏が、そのまた年上の碩学に序を請うたところ、阿部氏は辞退し、自分は後学若輩なので、跋なら喜んで書くと答えたという。それをうけて。

 これが、序と跋の原則的関係を物語っている。序はなにしろ書物の顔に当たる部分であるから、著者からみて、師匠筋にあたる年配者とか、身分が上位の著名人辞しとか、そういう人にこれを委嘱するのが普通である。それでもなければ、著者みずから序を撰する場合で、これを自序という。
 しかるに、巻末の跋となると、同輩もしくは弟子筋、友人、後援者などの立場にある人が、当該の書物の労作名著なるべき謂れや成立の事情について、比較的肩肘張らずに書き付けることが少なくない。

これを読むと、次のようなことがわかる。
林望氏は、こういっている。
1)序と跋は位置の問題でもあるが、中身の問題でもある
2)序は正式・格式、跋は非公式・略式的な中身。
と、さらに分析的に読むと、林氏ははっきり宣言してはいないが、つぎのことをしている。
3)近代日本の本に、阿部氏および林氏は古典日本の書誌学の知見をあてはめている。
4)阿部氏および林氏より、年上の碩学は、当初は日本古典書誌学の知見を無視し、近代日本出版の流儀で本を出そうとした(=年下の阿部氏に、序を依頼した)
どのような本が実際に出たのかは知らんが、かかる世に、あへて和装の和本を出すならともかく、洋本(洋装本)を出すのなら、年上の碩学のほうが正しいとさへいえるであろう、などと思うてみたりもするでし(^-^;)
ただ現在でも、あとがき(跋)のほうに同格の共同者業者たる編集者名が出てくることが多いように、2)については確かにその傾向があると認められよう。

柴田宵曲森銑三の序文論

岩波文庫『書物』にも、柴田宵曲の担当で「序文」があるが(p.283-)、単に本文を批判するというめづらしい性格の序文の事例紹介である。
むしろ森銑三の「序跋」(p.67-)に「小説集などを除いては今でも大抵付ける慣習」と、当時(初版は昭和18年)から小説にはつけない傾向にあったとこがわかる。また、序と跋についての差異には言及していないのが面白い。「文章道は地に堕ちた」から見るべき序跋はすくないとしながら、漱石やら大町圭月やら、近代日本の本ばかりを例に挙げている。といふことは、森はこの本でハ、意識的にか無意識的にか近代日本の本という枠をきちんと設定していたことになる。