きのふ、夕方オタどんのつぶやきに気付き、negi氏のbibliographyをチェックした後、ごそごぞ作業して、補完データをつくってみた。
でも新聞記事がないなぁ(´・ω・`)とて、ちとチェックしてたら途中で気になってたこれをみつけて、やうやく、読めた。
本に溺(おぼ)れていたい人だった。神保町の古書市でお会いするときは本当に楽しそう。山のように買っても自力で持ち帰れるように、リュックサックを携えている。まぶしいほど元気だった。
ほへー( ・ o ・ ;) 片山先生も古書会館行くんだぁ…
でも、きのふもさうだったけど、東京古書会館で初日の午前中に女性がいると、ついつい「あれ?hisakoさんみたい」と思ってしまふなぁ…(´;ω;`)
黒岩さんはそんな書物への愛を著述と見事に結びつけた。特に明治時代にこだわりつつ、学者の見すごしがちな雑本の類(たぐ)いを古書市などで丹念に集める。そこから忘れられた事実を膨大に発掘し、専門家から一般読書人までを等しく驚かせ魅了してやまない歴史物語を編み上げる。
雑著、雑本の概念史をば、記述しようとしたが、なかなかにむずかしい。けど、アカデミズム周辺でオモシロい研究をする人って、かならず、ざっ著(IMEが「ざっちょ」を変換せん)の効用をいふんだよなぁ。
日本にはアカデミズムと一線を画した在野の史家の伝統がある。徳富蘇峰とか白柳秀湖とか。黒岩さんはノンフィクションライターの域を脱し、そういう山脈に連なりはじめていた。
これとおなじ趣旨のことは、お葬式でむのたけじ氏が言っていたというし、編集者さんたちの追悼座談でも同じことが言われていたし、ぜんぜん別に森洋介さんも言っていたなぁ。
別系統の人たち、みーんなが言っている(。・_・。)ノ
長生きしたら、塩野ナナミたんも裸足でにげだす大家になったかも(*゜-゜)
写真=刊行したばかりの評伝「パンとペン 社会主義者・堺利彦と『売文社』の闘い」に込めた思いを語る黒岩比佐子さん。自宅には膨大な資料が並んでいた(10月13日撮影)
hisakoさんちの書棚が写っている。
じつは日本図書館全体の弱点として、雑著、雑誌(非学術:magazine)が体系的に残されなかったという事実がある。古い資料を持っているのは古い大学がメインなんだけれど、大学にはmagazineはないからねぇ。hisakoさんの雑著、雑誌ごのみはそのまま彼女のコア・コンピタンスになっていたのだなぁ、と改めて思ふ。