書物蔵

古本オモシロガリズム

文献注についての思い出

森さんのカキコにエントリ本体にて呼応してみる(´∀` )

むかーし、むかし。大学に這入る前のこと。
読む本読む本(それは市販本に限らず学校の教科書も同様だが)の文中で、書き手の直接経験でない(しょせん書き手の主観的事実としてであれ)事実として語られていることのどれにも文献注がなくって、

本の書き手というのは、事実に関して特別な回路を神様から与えられておるのかすら(・o・;)

とフシギでしょうがなかったけど…
高等教育を受けてわかったことは、どれもこれも、

  • 聞いたり読んだりしたことのテキトーな記憶に基づいて書き散らしている

か、

  • こっそり典拠から転写して出典を示していない

か、のどちらかだってことが判ったよ。
当時は今とちがって、ワープロもなく、素人が本をだすことなど思いもよらず、論壇とか文壇とか、あるいは出版社とかエディターシップとかに多少なりとも信仰が残っていた時代だったけど、その時代にしてそうだから。
もちろん、感想や意見のたぐいは事実と違って出典など不要だし、直接自分しか体験してない事実であれば、それは典拠のつけようもないわけだけど。
それに、さらにもちろんのこととして、直接体験でない事実すべてに文献注をつけるわけにもいかなくて、みんなが出典を知っているような事柄には(相対的に)つけなくてよくって、逆に知らないようなものであればつける必要がでてくるということらしい。
そーいった原理的なことというか、思想的なことをはっきりと学ぶことができたのは、著作権法のキョーカショでもなんでもなく、友人におしえられた板倉聖宣(きよのぶ)『模倣と創造(増補版)』(仮説社1987)によってであった。これは、著作権法という単独法規以前に、原理的に出典とはなにかを考えるのにヒジョーに役にたった。名著といってもよいだろう。
文献引用に関する基本がわからないと、たとえば著作権法という単独法にいくら詳しくてもまるでダメということがありえる。これは特に図書館界の単独法規マニアに往々にして見受けられて、たとえば手術のため緊急に論文のFAX送信を頼まれた司書が著作権法をたてにしないとかいったようなことなどがへーきで起こり、順々先生が違法性の阻却を知らんのか怒るようなこともあるわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20081025/p2
また、コピライトさんみたいに著作権法には異常に詳しいし、「無断引用」という概念は成り立たないことまでも指摘しているのに、「無断リンク」はいやだなどと本気で怒るようなヒトもでてきてしまう。