わちきにとって、図書館といふのは自由に多量に即時に横断的に文献が閲覧できるべき場所であり、そこでは、居住まいを正すとか、正しい文献だけを見るとか、ましてや正しい思想を持つための修養の場なのでは断じてありえないのだが…
けど、教育委員会の所管だからか、図書館を、正しい思想を正しい居住まいで正しく頂く場所とみなしとる人もゐるみたい。
法律ずきな人間だと―けして法曹実務家といふわけではない―それが助長されちゃふやうな気がする。
たとえばこれ。
図書館と著作権 http://www.cric.or.jp/qa/cs03/
Q10デジタルカメラや携帯電話を使って資料を撮影する利用者がいますが、図書館としてはどう対応したらいいのでしょうか?
この答えにあるこれ。
しかし、著作物の宝庫である図書館で、わずかずつであっても、自由にあれもこれも撮影しまくるというのは、あまり感心したことではありません
コトバ足らずだなぁ…単独法マニア的な視野狭窄の論法のやうな気がする。たとえば、文中の「撮影」といふコトバを、「閲覧」にさしかえたらどうなるか。
著作物の宝庫である図書館で、わずかずつであっても、自由にあれもこれも閲覧しまくるというのは、あまり感心したことではありません
……(-_ - ;
むかーし、出納手をしてゐた頃の話なんだけど、「わずかずつ〜自由にあれもこれも閲覧しまくるというのは、あまり感心したことではありません」というのは、同僚の出納手たちの意見、ないし感情であった。なぜかと言えば、出納手は歩合制ではないので、
- 特定少数の文献を長い時間かけて読んでくれるのを、感心する立派なお客、
- わずかずつ自由にあれもこれも閲覧しまくる客は、感心しない悪い客
と感じるようになってゐたから。
けど、長編小説や多巻物のマンガを読みに、つまり消費的読書をしに図書館に行くんならともかく、調べものに図書館に行ったことがある人ならば、本来、調べものって
わずかずつ自由にあれもこれも閲覧しまくる
のがデフォルトだって体感的にわかるよね。言い換えると「濫読」こそが「調べもの」に必須の読書態度といふこと。
ここで黒沢氏は図書館における閲覧を「精読」つまり、少数の正典をじっくり読み進めるべきところと考えてゐるのではあるまいか。だから、こんな表現になっちゃふ。
同じことを言ふんでも、もっと淡々と
著作権法的にはOKですが、カメラのカシャカシャ音や盗撮、肖像権などのリスクから庁舎管理権を根拠にカメラ使用を禁じる利用規則を定めてはどうでしょう
ぐらいに書けばよい。