書物蔵

古本オモシロガリズム

実定法とMLA事業と、どちらが先か? 境真良(まさよし)氏の議論から

今朝、ある人に司書課程の教科書をもらったんだけど、その時、なんの拍子か(コミケだったか、図問研だったか、アホな図書館官僚だったか)次の本の話になる。

デジタル文化資源の活用 地域の記憶とアーカイブ

デジタル文化資源の活用 地域の記憶とアーカイブ

とゆーのも、同書を友人から貸してもらってをって、その人と同じ箇所を友人も誉めてをったからである。

短いけれども、基本的に正しい方向と思う。
いままで日本図書館界には著作権マニアしかいなっくって、これが正しい解釈だからこうせい、という(ほぼ)実行不可能な手続きを編み出したり、運用コストを極大化して税金の無駄遣いを促進してきたものだったが、やうやくまともな方向の議論がでてきたのね。
MLA(ミュージアムやライブラリーといったもの)が事業をやろうとすれば知的財産制度でコンテンツを管理していくことになるし、現状ではそれは法文として日本著作権法といったものになるけれど、民法の基本からして、実定法が存在しないことがらも、約束というのがありえると、法社会学的には(法学的にもか)むしろ当たり前のことを振ったうえで境氏はこういう。

こうして、単に著作権法の規定がどうあるかだけではなく、そこでどのように契約は結ばれているのか、世の中や関連業界の支配的な考え方はどうなのか、そういうことを重ね合わせて「知的財産制度」を考えることが必要になってくる

そういった枠組みで問題をとらえなおさなければ、

当たり前のことだが、著作権法は一つ一つの著作物に著作権の存在を認めている。従って、一つ一つの著作物について、場合によってはそこから抜き出されたデジタルデータの複製の一段、一段について個別に権利者「たち」の許諾を得なければならないことになる。例えば、ごく小規模な図書館を想定したとしても、これが現実離れした業務負担になることは言うまでもないだろう。

という。

「制度」としてのコミケ

そこで著者はなかなか面白い事例を出してくる。そう、コミックマーケット

〔「そこでは著作権法上は無許諾の複製物」が取引されているから、訴えることが可能なはずなのに〕
実際にそれが為された例は筆者の知る限りここ数十年で1件に過ぎない。これ〔コミケ〕に関する各出版社〔の対応は〕、可能な限り権利行使を抑制することが業界としての作法となっている。

と、ここ数十年の慣例をもってきて、それは制度となりつつあるのではないかと指摘する。もちろん、コミケが正しいというのではなくて、MLAがほんとうにまじめに知的財産の管理をこれからしていく場合は、従来方式だけでは「現実離れした業務負担」をうむ、今までのやり方以外のものを模索すべきという。
著者はそこで、コンピュータソフトの世界にある「ライセンス方式」を参照したらどうかと提案するところで論は終わっている。この先は議論や実践が必要だよというところなのだろう。
そもそもオファン・ワークス(孤児作品)という概念は、米国で現行著作権法の不具合を指摘するために近年、発明された概念だったハズ。
MLAがらみの知的財産制度の議論も、単独法規マニアのトリビアに終わるのではなく、そういった(というか政策的、とでもいうのかな)多少なりとも生産的なものになってほしいと思うことしきり。

科目「図書館法制(仮称)」と法匪

数年前、司書課程の省令科目改訂で「図書館法制」を1コマ創るという案があったけど、半ば賛成し半ば危惧するのは、まさしくこのこと。
はっきりいって、いまの図書館業界に、図書館事業の観点から法の構成を考えていくといった教科書が書けるような人はいないのでは。
中途半端な実務家がでてきて、あれもできません、これもできません、こーなければなりません、こーでしかありません、ばかりの教科書内容を憶えた硬直した思考の人が出てきちゃうのを恐れるのだ。
それならまだ昔の左翼くずれ(てんからブルジョワ政府の法制は仮のものだったから)のほうがなんぼかマシだったと云いたい!`・ω・´)o
そういう意味では、ただの折衷だけど、「図書館制度・経営論」になったのは、概念構成上はむしろいいことだった。今回紹介した文章にいうように法定外のことも制度であり、基本的に図書館事業や経営を先に考えて、法律はそれをやるにはどう構成していけばいいかという企業法、経営法学的な観点をとれる枠組みではある(可能性として)。