書物蔵

古本オモシロガリズム

(荷物運搬用)三輪車について

この「三輪車」についてネットで最小限のことがわかったヽ(o`・∀・´)ノ.+
古本好きなのに、ネットのみでエントリを書くのはいかがなものかと思いつつ、書くなり。情報源はおもに2つで、自転車文化センター科学技術館内)と埼玉県サイクリング協会のサイト。

国内生産の初めは1902(明治35)年

日露戦争の2年前、1902(明治35)年に*1栃木県足利の酒井次郎吉が製造を始めたという。それ以前から外国の自転車カタログには同様のものがあったというから、発明したというわけではないようだが。

普及は大正期

国内製造開始は明治末で、「大正から昭和初期までかなり普及し」、「群馬県下の織物業者や大阪道修町の問屋等で多く使われた」*2という。岡山にも自転車屋は何軒もあったから、そこで製造したものか、あるいは大阪あたりで製造されたものが、1922年前後に岡山市立岡山図書館に配備されたものと思われる(ただ、公費で直接購入したかどうかは、あやしい。年報の本文に三輪車がでてこん。というのも…)

リヤカーの登場による消滅

諸説あるらしいが、リヤカーの発明は大正6年頃、中村銀輪社によるものであるらしい*3。リヤカーは日本固有のものなので、和製英語ないしカタカナ語
このリヤカーが大正10年ごろから普及しはじめ*4三輪車を市場から退場させたという。理由は、機構が単純でコストが安いということと、積載量の上限が高いこと、にあるという。逆に三輪車は、リヤカーにくらべれば、コストが高く、積載量が少なかった。さらに広めの車庫が必要だったこともマイナスだった。実際にリヤカーを運用した経験のある友人Aの言によれば、リヤカーは立てかけることによって置き場の集約化ができるという。
ただし、1918年頃、大阪で米国製のエンジンを装備した三輪車が開発され、それが「オート三輪」の最初とされるとウィキペディアにはある(がウィキペの通弊で典拠不明)。

ビンボーな日本:普及学から

商学の一部門、「普及学」に関する中公新書で読んだような気がするが、実は技術的に進んだものが必ずしも普及・定着するわけではないなり。よく出るのが、ビデオデッキのベータとVHSの例ね。
「三輪車」vs.リヤカーもまったく同じパターンで、三輪車のほうが、より高度な、高速で物品を移動できる技術体系なわけだけど、当時の日本は人件費が安いから、効率性・高速性よりも、労働集約的だけど安価な技術体系のほうが結局、普及・定着したということですな(スワ、アジア的生産様式か?!)。
すでに普及していた三輪車を駆逐し、昭和30年代まで使われ続けたのは、日本の人件費と技術水準が低かったからといえましょう。

この「三輪車」の呼び名について

大正期には、単に「三輪車」と呼ばれていたらしい。それはこの前紹介した同時代の広告でもそうだった。おそらく現代の術語(自転車文化史用語?)として、「前荷台式三輪車」「荷物運搬三輪車」といった用語を、自転車文化センターの谷田貝一男学芸員が使用している。ウィキペディアオート三輪の項目(日本語版のみ)に「自転車式貨物車(フロントカー)」なる用語がでてくるが、これの典拠は不明。