書物蔵

古本オモシロガリズム

邑久郡モータリゼーションは大正期!

昨今でこそ出版史ばかりのエントリなるも、もとを糺せバ図書館史(^-^;)
ひさびさにかっておっかけとった自転車宅配サービスネタ。
グーグルでひっかかったのぢゃ。
ゴロウタンのまへの担当は吉岡サンペーたん。けどサンペーたんがはじめたんぢゃあ、ない(σ・∀・)σ
で、調べりゃすぐわかるんだけど、始めたのは大河原生二といふ人物で、この人はもと学校の教員ということはすぐわかったのだが、県立図書館のレファ担当に邑久郡の小学校長をやってたみたいですよと教わったのはもう4、5年前になるかしら。
で、4、5年ぶりに大河原について調べてたら、つぎのテキストがヒット。なんと、邑久郡は鉄道+徒歩の戦前日本において例外的にモータリゼーションが進んでいたことがわかったのだ(゚∀゚ )アヒャ 
内容は、単に井上円了岡山県に講義に行った先で、1915.2.22に国府村〈現在岡山県邑久郡長船町〉に行った際、出迎えた中に、小学校長の大河原がいた、ということだけなんだけれど、その前段に、きわめてオモシロなとが(≧∇≦)ノ

更に車を駆ること約三里にして邑久村〈現在岡山県邑久郡邑久町〉に入る。本村は邑久郡の中央に位せるをもって郡衙を置かるるも、郡役所所在地としては県下第一の寒村なりという。たまたま郡教育会を開催せらる。会場小学校の門前に脚車すなわち自転車の数、およそ百台以上に及ぶ。本郡は平坦なるも鉄道なし。故に脚車の多きこと県下第一にして、ある村落のごときは一戸一台の平均なりと聞く。

岡山県邑久郡は、平野なのに鉄道なく、そのために自転車が県内一普及し、ある村では一家に一台もあったといっている。つまり、例外的に自転車によるモータリゼーションを達成していたのが邑久郡だったと井上円了の証言からいえそうである(まあ、ウラどりは必要だけれど、郡誌や統計で自転車の普及率なんてわかるかなぁ…)
そしてその邑久郡からやってきた大河原生ニが、自転車による宅配サービスを岡山市立で行った…
これは影響関係を設定してもよいレベルではあるまいかΣ(゜∀゜;) 
ん?(・ω・。)
だ〜れ〜(σ・∀・)σ

motorがついてないbycicleでmotorizationもないもんだ┐( ̄ヘ ̄)┌

なんて言ってる人は〜?(σ^〜^)
たしかに、文中の「脚車」はコレ自転車なり〜ヾ(*´∀`*)ノ゛キャッキャ

テキスト

井上円了選集テクストデータ
http://www.ircp.jp/enryo_senshu/enryo_text.htm
P245−−−−−−−−
南船北馬集 第十一編
1.冊数 1冊
2.サイズ(タテ×ヨコ)188×127?
3.ページ
 総数:133
 目次: 1
 本文:132
(巻頭)
4.刊行年月日
 底本:初版 大正4年12月18日
5.発行所
 国民道徳普及会
P247−−−−−−−−
岡山県巡講第一回(備前三郡、備中三郡)日誌
 大正四年二月十五日。午後三時、東京発にて岡山県巡講の途に就く。随行は静恵循氏なり。この日、旧暦一月二日に当たる。岡山県備前、備中、美作の三国にわたり、一市十九郡、人口百二十万を有する大県なり。御津、赤磐、和気、邑久、上道、児島の六郡は備前に属し、浅口、小田、後月、吉備、上房、都窪、川上、阿哲の八郡は備中に属し、真庭、苫田、勝田、英田、久米の五郡は美作に属す。
 (略)
 二月二十一日(日曜) 晴れ。片上を発し行くこと約一里、香登村字大内、津田謹吾氏庭内にある臥竜松を訪う。経年二百余年に過ぎざるも、一幹九岐千枝、しかして幹囲十八尺、枝朶の長さ東西二百五十尺、南北百五十尺、樹高二十五尺あり。その横臥の長さは日本第一と称す。昔時、備前侯より肥料として毎年米三石を賜りしという。ときに即吟一首を得たり。
  大内村頭有老松、満庭蒼影四時濃、鯨身鶴骨三千尺、二百年来古臥竜
(大内村には年をへた松がある。庭いっぱいに葉影をのばして、四季を通じてみどりは深い。鯨のような幹のふとさと鶴の羽ばたきのごとき枝は三千尺もあろうかと思われ、二百年をこえる古い竜の臥す姿の松である。)
 三村郡視学とここにて相別れ、更に車を駆ること約三里にして邑久村〈現在岡山県邑久郡邑久町〉に入る。本村は邑久郡の中央に位せるをもって郡衙を置かるるも、郡役所所在地としては県下第一の寒村なりという。たまたま郡教育会を開催せらる。会場小学校の門前に脚車すなわち自転車の数、およそ百台以上に及ぶ。本郡は平坦なるも鉄道なし。故に脚車の多きこと県下第一にして、ある村落のごときは一戸一台の平均なりと聞く。物産としては米麦あるのみ。民家にては炉中に湯を沸かすに多くモミガラを焼き、その灰を火鉢に用い、藁は燃料に用いずという。これ本郡の特色とす。開会発起は郡教育会長兼視学塩見東八氏、副会長林甚八氏、邑久高等校長宇治大治郎氏なり。塩見氏は先年、上房郡にて相識となれり。当夕、旅館大黒屋にて郡長斎藤威郎氏等と会食す。昨夜、本郡尻海と名付くる所に神田神社の会陽ありしと聞く。会陽は備前独特の祭事にて、上道郡西大寺における毎年二月十四日の会陽を県下第一とし、これに次ぐものを神田神社の会陽とす。男子は裸体になりて互いに押し合い、神木と名付くるものを争い取るなり。一種異風の祭事というべし。西大寺の会陽と成田の豆マキとは東西対立の勢いあり。
 二十二日 穏晴。早暁、厳霜を見る。京北出身吉田関治氏、笠加村より来訪あり。午前、高等小学校庭前の講壇に登りて、生徒に簡短なる訓誡的談話をなす。本郡は各小学校に講堂代用として、煉瓦にて積み上げたる庭前講壇を設くるもの多きは特色の一ならん。これより車行一里半にして国府村〈現在岡山県邑久郡長船町〉に至り、午後開演す。会場は小学校、宿所は井上寿正氏宅、発起は村長島村甚吉氏、助役高原清八氏、校長大河原生二氏なり。当村に隣れる行幸村備前長船名刀の家ありて今なお存す。郡教育会より助兼作の短刀を恵与せらる。この地にて聞くところによるに、郡内の田地は一反につき七俵ないし十俵の収穫ありて、小作料は三俵半より五俵、売買相場は四、五百円ぐらいなりという。
 二十三日 風雨。車行四里、駅道平坦なり。会場は牛窓町〈現在岡山県邑久郡牛窓町〉小学校にして、校舎は堅牢の新築なり。その位置丘上にありて眺望すこぶるよし。当町は海湾を帯び、島嶼を擁し、風光明媚をもって聞こゆ。この日大雨なるにもかかわらず、聴衆は五間十五間の会場に立錐をいれざるほどに充溢す。発起者は校長林甚八氏、助役谷源三郎氏等にして、宿所は蔦屋旅館とす。一町の生計は海産業および船職工なり。その職工は和船造営に従事す。また、材木の豪商ありて各国の材木ここに輻湊す。戸数千戸、郡内第一の都会なり。この町の名物の一を唐子踊りとす。その歌は朝鮮より伝えたるものという。
「サアーチヤー、アーハンヱーヱーヱ、ヤンヤハシユンレー、」同二度ニイモーヲ、オーシユンレイヱーヱ、ゴヲモーヲデーヤアーソー、ハアーヲーカンヱー、ヱイソヲーヱーヱー、オントヲロオーロオチイー、アーソオーモ、ヒイーヤ、ハアー、ツンテンーテレヅチツテツテンーツトン、チイーチンーチリツント、ヒイーヤ、テレツツトントン、(その他は略す)
 また、町内には万灯または高祖の姓あり。讃州小豆島へは海上四里、一日間にて往復するを得という。

2014.1.27追記「脚車」につきて

日本国語大辞典では、

あし‐ぐるま 【脚車】〔名〕家具などの底部または脚部につけて移動に便利なようにする小さな車。キャスター。

しかでてこんが…(゜〜゜)
むしろ、「きゃくしゃ」とでも読ませて、自転車のことなんだろうけれど。。。明治文学全集総索引にはなし。