図書館振興財団(以下、振興財団という)はJLAとどんな関係にあるのか?っちゅー疑問のエントリに答えようとしたら、なぜだか標記のやうなフレーズが頭に浮かんでしまった。我ながら下品な(゚∀゚ )
でも言いえて妙で、
JLAが生んだ子が、養育できなくなって養子にだされ、改名し、長じて立派になっちったのがTRC
という図式は史実だよ。もちろん、JLAがTRCの生みの親であることが何故だか言及されんできたというのは、実はごく最近指摘されたことであるけれど。
絶対窮乏の昭和22年に…
足らん足らんは工夫がたらん!とはいへ、帝国政府により昭和20年まではそれなりに配給制度が動いていたのが、敗戦で無政府状態になって、ほんとうにモノがなくなったのは昭和22〜23年ごろ。
その昭和22年に「地方の窮状を見かねて」JLAが始めたサービスが、「カード斡旋配給」と「図書推薦事業」であったという。
ところがこれが「成功」して、どんどん規模が大きくなってくる。1964年度の会計報告では、一般会計1400万円だったのに対し、このカードと選書が計上される事業部会計は2600万円の仕入れで3600万円の売り上げだったという。そして、最初な絶対窮乏のために始まった事業だったのだけど、いつのまにやら違う目的が設定されるようになってくる。
JLAカードは人手の足りない中小図書館が使用し、(略)各館でカードを書いたり複写する手間(略)すなわち同じことを各館で行なうならただ一館のみに任せて、あいた時間を他の時間にふり向けようとする合理化とコストダウンが狙いです(植田喜久次「日本図書館協会の印刷カード」『図書館雑誌』66(4) p.27-29 (1972.4))
いつのまにか、集中作業によるコストダウンが主目的ということになった。目録のノウハウが公共図書館の現場から蒸発してもいいのか、といった政策論はふっとんでいた(中小レポが助長した)。
規模拡大で破綻するモデル
けれどこの事業モデルには致命的な欠陥があった。注文から実際の支払いまで最大で数ヶ月要するモデルだったことである。「扱い高が少ないうちは取次も待ってくれていたが、納品量が増えるにつれて運転資金がどうにもならなくなってしまった」という。
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!! 図書館界の大立者・彌吉のみっちゃん!
かきかけ