書物蔵

古本オモシロガリズム

反町茂雄、中田邦造に感動す

東京都の衣料品買上げ予算を、典籍買上げに転用させ、そしてそれを反町に運用させ、貴重な書籍を戦火から守った話は有名。
1980年8月の『図書館雑誌』(p.382-)に反町茂雄が書いているのを読んでみた。

〔昭和20年〕2月下旬の一日、日比谷図書館から電話がかかって来ました。館長の中田邦造さんから、お願いしたい件があって、これからお伺いしたいが、とのお話。何かわからぬままに承諾。雨もよいの、薄暗い空の日の午前10時頃だったでしょう。
間もなく来訪されたので、二階の応接間へお通しする。初対面のアイサツ。6尺に近い長身。少しふとり気味、容貌は魁偉と評してもよいほどの大きな構え。以前に金沢の石川県立図書館の館長として、郷土資料叢書の出版や、万葉集の子文献の充実した展覧その他を行い、当時の地方図書館としては、稀有の活発な活動をして居られたので、そのお名前はよく承知して居ました。
西田幾多郎博士で名高い、京大の哲学科の御出身とかききましたが、お見受けしたところは、思索の人よりは、むしろ実行の人という印象。お年は私より少し上、47,8と見受けました。浅黒いお顔(後略)。

そんで、東京への2回目の大空襲があった5/25までにいろいろ買い付けに奔走するんだけど、そんななかのエピソード。

4月末頃の一日、山の手方面から帰途の夕方、国電の中、新宿近郊で、前夜の空襲の残火が、吹く風にあおられて、また燃え上がったのを見ました。ちょっとした危険感が走りました。つり革につかまりながら、中田さんは「私はこの仕事のために死んでもよい」と、つぶやかれました。とっさの感動にうたれて、すぐ「本当ですね」と答えました。

反町は中田だからこそ、疎開事業ができたと力説しているが、

私はこの仕事のために死んでもよい

とは、中田邦造、すごいです(・o・;)

館員のなかに東田さんらしき人が

ところで、この話んなかに出てくる日比谷図書館の館員さんたちのうちの一人は、読書指導者のひとり、東田平治さんではないかと、わちきは思うのだ。

日比谷図書館では、中田さんの下に、秋岡梧郎さんが主事で、事務を統括されていました。錬達のライブレリアン、私には以前からのお馴染みです。その下に庶務部長のような仕事をして居られたAさん、買入れの事業の係長のようなBさん。お二人とも、お顔は35年後の今日でも、はっきり記憶して居るのですが、お名前は残念ながら思い出せません。Aさんは心持丸顔、大き目の目のはっきりしたお人。笑顔の多い、テキパキとした事務家でした。Bさんはやせ気味、面長、おだやかな性格。しかし仕事には誠実、最も頼りになるお人でした。

外見といい、お人柄といい、「Bさん」は東田平治さんであると強く思われる。
だとすれば、西田幾多郎ンとこまで東田さんが行ったという用事も(これはオタどんの発見)、反町の言う「買入れ事業」の担当として行ったのではあるまいか。
「Bさん」が東田平治だとして、空襲当日の東田さんの言葉が残っている。

〔昭和20年5月26日〕午後3時すぎ、突然に玄関のベルが鳴る。開くと、三角頭巾を背にしたBさん。「反町さん、日比谷は焼けました」。眼前が、クラクラと暗くなる。
 「焼けましたか?!」
 「みんな焼けました。あの辺は何一つ残って居ません」
 「ホントー?」
 「私はいま見てきました」
この人らしい、しずかな声色。そうか焼けたか!!

(追記)西田幾多郎

わちきのネット盟友、神保町のオタどん記事http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20061016/p1によれば、『西田幾多郎全集 第18巻』(岩波書店2005)に日記があり、「昭和20年4月22日 中田邦造の使東田平治来訪/同月23日 東田夜又来る/同月25日 東田へ手紙/同月29日 東田来」とあるという。