書物蔵

古本オモシロガリズム

古書目録は分析書誌学だ! 国会のダブリから


下記の概要でかなりおもしろいものが書けたのですが,upの際に,なぜか失敗してしまいました。このブログはそういうことが多々あります。とても腹立たしい。なぜだろう,禁止語検閲にひっかかったのか,それともシステムの問題か。(追記。まえのサイトでのこと)

(以下,また書いたもの)

国会のダブリ・データ  上野の本 赤坂の本

このブログのいっちゃん最初に「仙花紙図書館学」ってのがありやす。竹林熊彦(タケバヤシ・クマヒコ)ってゆー人の仙花紙本ね。

わての架蔵本には,なんとサインが毛筆で(北海道の古本屋からネットで購入)。「御記念/昭和廿八年十二月廿八日/竹林熊彦/松本先生ニ呈ス」と見返しにある。そんでこの本を国会のOPACでひいてみると…

和図書 1−2(2件)

1. 書物をなでて / 竹林熊彦. -- 文芸復興社, 昭和23

2. 書物をなでて / 竹林熊彦. -- 文芸復興社, 1948

なんと2つもデータがでてきました。詳細画面をみても,両者のデータは,刊年の表現形がちゃうほかはまったく同じ。おなじ本なのでは…

友人のつっこみ

んなことを友人にいったら,「それぞれ由緒来歴がことなりたれば,別データにてもよからむ」と。

ナルホドそういう考え方もあるかと。たしかに細かいデータをみると,それぞれの請求記号がちがうよ。国会は2冊おなじ本をもってるんだねぇ。

1のほうは帝國圖書館(上野)の本,2は国会図書館赤坂離宮)の本らしい(『国立国会図書館百科』による)。

サインの真偽や如何

で,こんなことを考えてみた。わちきが架蔵本のサインが本物か調べたいと思いたったとする。

国会図書館は法定納本で直接に本をあつめてたんだけど,一方で帝國圖書館は内務省があつめた本をもらったり(内務省交付),出版者から直接もらったりで,じつは寄贈で本を結構集めていた。

そんなことを考えたわては,上野本にもしかしたらサインがあるかもしれないと妄想する。帝國圖書館は図書館学者たちと人的なつながりが強かったはずだし。図書館学校とか併設されてたからね。

もしこのデータが1つに統合されてたら,こんな調査は思いつかないし,それにあそこは閉架式。副本(複本)がわからなくて,赤坂の本しか出てこなかったら,調査は失敗してしまいます。

友人の言うことにも一理あるだす〜。

2つの書誌学

で,こりゃあ一体どういうことなのかと。なんかココロにひっかかる……。しばらくして,ああ,こりゃー書誌学の分化ということで説明できるわい,とおもいつきますた。

教科書的には書誌学の分類ともいわれ,書誌学は2つに別れているそうな。

 分析書誌学(analytical bibliography) その本をくわしく

 体系書誌学(systematic bibliogaphy) ほかの本とどうちがうか

なんかわかりずらい専門語だな〜(とくに体系書誌学),って,これ翻訳語ですから無理もない。体系ってよりも,ステマチック書誌学なんだから,システム書誌学でいーんじゃないの? 同義語の列挙書誌学のほうがわかりやすい。

分析,のほうは,個物を詳しくしらべるってことみたい。結果的に物理的側面(造本やタイポグラフィとか,装丁とか)に重点がおかれる。んで,十分くわしく記述する。

体系,のほうは,たくさんの本を引用,列挙するときに,他の本とちがうと最低限わかるだけ必要なデータだけをとる。カバーの色がちがうとか,署名があるとかってのはカンケーない世界。

で,体系〜では,数百年かけて「これだけの要素があれば最低限ほかの本と区別できるゾ」ってゆーものだけにデータ要素をけずりこんできんですね。それが,著者,書名,版,出版地,出版者,出版年,頁数とかだったわけです。べつに他の要素(表紙の色とか)が残ってもいいんでしょうけど,のこってませんねぇ(笑。

<対比表>:コンセプト;やるヒト;データ数;使える場 

分析書誌学:その本は;書誌学者;1〜数百;史学・学説史

体系書誌学:他の本と;図書館員;数千〜;閲覧・参照

2つってことを強調しすぎたけど,よ〜く考えてみればわかるように,ある本を分析書誌学で記述しても,著者とか書名とか,体系〜で採りあげる要素もきちんとはいっているわけで…。そーゆー意味では,

体系書誌の記述+個物の記述=分析書誌の記述

ということも言えます。ただ大きな図書館の場合,数十万もの本にいちいち分析なんかしてられないわけで(笑。

さてさて,これで最初の疑問はとけましたね。国会のデータのダブリは,体系書誌学的には統合すべきだが,分析書誌学的には意味がある,ってことです。

もし,データが統合されていたら,わちきの署名調査みたいなニーズを抱えたお客は国会図書館でなんていえばいいんでげしょ。

もうおわかりですね「複本全部だしやがれ」って言えばいいんです。そして図書館は複本情報もキチンと整備・公開する。あ〜閉架式は客にも職員にもめんどい〜

古書目録は分析書誌学だった!

で,わたしの大好きな目録は,古書店が発行する(販売用の)古書目録なんですが,これはどっちなのかなー?

シミ ヤケ カバ欠 ヤレ 元パラ 帯 函 裸本

なんのことだか解ります?これらは古書目録特有の注記なのです。帯とあれば,帯つき,函は箱つきってこと。

カバーが(あったはずなのに)なくなってると,カバ欠。カバーがついてたかどうか,ついてないのになぜわかるのでしょうか? これは,古いモノであればわかるんですよ。見返しの部分に経年変化による色の変化がでてくるのですが,カバーがあったところ(カバーの折り込み部分・flapのこと)とくっきり明暗がつくのです。もちろん,カバーつきを以前にみたことがあれば,わかりますけど。

裸本ってのは,カバーも帯も箱もなくなってるとおぼしき本,ってことです。

話がそれました…。で,なんでこんなヘンテコ語をもちだしたかっちゅーと,これらは絶対に図書館目録の注記には登場しないってことをいいたいんす。

本の一冊一冊が,どんな状態なのか。コーヒーのシミがあるのか,前の持ち主の蔵書印があるのか。本来の付属品がなくなってるのか,などなど。

あれー,つまりこれって,個物の物理的側面について記述してるってことですよね。同じ本でも複本にはコーヒーのシミがないってこともありえるもんねぇ。ということは…。

古書目録は,分析書誌学ってこと

紀田順一郎氏は,まえから,外国にくらべ国内の古書目録は記述が全然たりない(し誤植だらけ)と苦情をのべています(『本の本』1975.12)。でも,たりないにせよ物的な記述があるんで,いいかげんでも分析は分析。するってーと,古書店主は軽便書誌学者ってところでしょうか。日本の古本屋にはカネもヒマもないみたいだし,分析深度やらクオリチーやらを高めるのはむり。

分析〜でない体系〜のほうは,分析〜との分化の流れのなかで,データ要素を最低限必要なものだけに削りこんできたわけだす。たとえば,カバーや表紙の色なんてのは,古書店での古本買いには,とっっっっても役に立つ情報なのに,んなもんは要素として残されませんでした。けど,分析書誌学では,表紙の色について記述してもいいわけです。

有名な『国書総目録』ってのは,あれは体系書誌学なわけです。いい加減かどうか,とか古書であるかどうか,で分析・体系がわかれるのではなく,物理的な記述がデータ要素にあるかどうかでわかれるんですから。
で,一般の理解としては,書誌学=分析書誌学 と考えておくといい。

書誌学と図書館学がいっしょに暮らしていた頃

このまえ買った『書物耽溺』じゃあ,なんだかしらん,書誌学者の谷沢永一(タニザワ・エイイチ)は図書館学に毒づいているし,そんなプリプリしなくてもいいと思うんだけどなぁ。

だって書誌学も図書館学も,純粋学問ってよりも,各学問の方法論・補助学にすぎないんだし〜。もっと仲良くしようよ。一方で司書ももっと書誌学や愛書趣味に理解をしめしてほしいなぁ。

手元にある『図書館ハンドブック1952年版』は,執筆者の多くが国会・上野図書館の連中だけれども,書誌学の部分は斯界の大御所,川瀬一馬が書いている(と友人におしえられ)。

してみると,1950年代までは書誌学と図書館学は仲がよかったのかなぁ?これはこれからの研究課題だなぁ。