書物蔵

古本オモシロガリズム

1901年7月18日、帝国図書館で美少年をチラ見するー明治半ばの珍なる日記

本好きのための「本の本」たる『本のリストの本』(σ ・∀・)
発売してまだ一週間たってないのに、なんと、東京堂ベストセラー4位に躍進していてびっくり(@_@;)

あたかもよし、畏友オタどんが国文研の先生に、その日記参照のちからを褒められていた(σ ・∀・)


ん? 日記といえば、わちきもオタどんが活用せる日記を読み込んで『本のリストの本』のボツ原稿をを書いたので、それを書きかけなれど、ここに発表せん∠(`・ω・´)

○明治半ばの本好き学生による赤裸々読書日記

 最近、読書の歴史に凝っている。もともと古本オタクだったのが、古本というモノがどのように使われていたのか、という方向に興味が広がってきたのだ。モノからコトへ。書物から読書へ、という次第。
 けれど、本を読むのはあたり前すぎる行為だし、動作なので痕跡が残りづらい。物を分析する書誌学と隣接している割に、読書史は難しいのだ。なにかいい資料はないかしら、と思っていたら、ネットの友、神保町のオタさんが格好のものを見つけてきてくれた。それが荻原井泉水『井泉水日記 青春篇』(筑摩書房、2003)である。というのも、オタさんは趣味でいろいろな(活字化された)日記を読んで、意外な人の意外な人脈や行いを見つけるので有名。大学時代、日本の巨石文明を研究していたらしいが(「近代ピラミッド協会」の会員だったとか)、それ以降は市井に隠れ、2005年ごろのブログブームで姿を現し、ブログ「神保町系オタオタ日記」の情報で学者先生にも感謝される人である。
 井泉水こと荻原藤吉(1884-1976)は自由律俳句の人。この日記は、明治34年から45年まで、彼が18歳で第一高等学校(いまの東京大学教養学部の前身)へ入る前後、正則中学時代からのものである。上下巻でまだ上巻しか読めていないのだが、これがまた、本の話題が妙にたくさん出てくるのだ。
 彼は雑貨屋の(事実上)一人っ子。家族と使用人に囲まれ、父親が早逝したこともあってか、常に道徳的高みを目指しつつも、当時としては実に自由に行動し、それをメモにし、そして正直すぎるほど日記に清書していて楽しく、役に立つ。
 明治34年1月1日「手燭をともして二階に至り新刊の「文芸倶楽部」を持来りてよみおりき」。大晦日から元旦にかけ、家の者が宴会をしている中で、ひとりロウソクを灯して(当時は電灯がまだなかった)文芸誌の新年号を読むのである。
 同年1月2日「「小間物商報」来たりればよむ。ねぶくなりたれば机の上にふして午睡せり」。彼は店番もすることがあり、雑貨屋なので(おそらく郵便で)「来た」業界紙も読むのだ。それから友人宅へ行くと彼は居ないので――電話もない時代、いきなり訪問は当たり前――友人宅へ上がり込んで、「「太陽」などみてまつほどに」と、友人宅の月刊誌『太陽』を勝手に読ませてもらう。毎朝家に届く『読売新聞』も毎日必ず読んでいる。一方で投稿したり校内同人誌を出そうとしたり。彼は読むこと/書くことが大好きなのだ。
 高等学校入学試験の結果がわかる日も、「七月十八日 晴〔中略〕結果のわかるは午後よりなれば午前のうちは帝国図書館にbookworm〔本の虫、紙魚〕とならむと思ひ」、交通費をかけてはるばる上野へ。
 「馬車〔馬車鉄道〕にて上野にいたり直ちに図書館に入る」と、井泉水は本をみるより、なんだか違うものをチラ見しまくってしまう。

予の占めたる椅子の斜め前には白がすりの筒袖をみぢかく着、まだ肩上げのある美少年あり。十三、四にや中学の二年位とみえ、『博物示教』などいふ書を借出してよみをりたるが、ゆかしく又いはむかたなくうつくしきに、思はず折々はながめつ。
※読点は引用者が補った

 座った席の斜め前にたまたま美少年が座ったので、いまの理科の図鑑みたいな本を読んでいるその美少年を、チラチラながめる井泉水なのである。帝国図書館には「婦人席」があり、女性とは同席しないで読書に集中できるはずなのだが、美少年は排除できず読書の妨げとなっている。
 文化の都、広い東京市中に図書館はまだ二つしかない。まじめな本を借りて読むには、「上野の図書館」(=帝国図書館)へ行くか、神田神保町、小川町あたりにある「高等貸本屋」(いろは屋貸本店など)へ行くしかない。一ッ橋に帝国教育会附属書籍館があったが、通俗図書館を目指していたのでどこまで真面目な本が読めたか。もちろん(?)現在と異なり、図書館でも閲覧料を払うのだ。
 無事、高等学校に入学した井泉水は、中学制度改革の投書をしようと思い立ったらしい。

八月廿一日 晴〔中略〕予はひきかへして帝国図書館にいたる。七時半の開館をまちて入れり。「読売新聞」に論文を投ずる為め中学制度改革論につきての世論及び先輩の説を調べんと欲し、「太陽」七ノ八、「太陽」七ノ九、「天地人」、「学校改良論」、「

(かきかけ)
 井泉水くんは、本、特に洋装本(西洋装の本)をたくさん持っている。一高に入学するにあたっては寮に入らなくてはいけないので、家を空けていても本がすぐ探せるようにだろう、本を統一的に本棚に並べることにしたらしい。そこで本棚を
(かきかけ)
前者は馬車鉄道での車中読書、個人用本棚のつくり、造化器本のエロ本的用法など、明治30年代読書生活の得難い史料になるし、後者は純粋に珍しい。

ということで

途中で原稿が止まってます(^-^;)

『本のリストの本』が創元社から今月8/27発売

わちきもめづらしくペンネームで執筆させていただいた
『本のリストの本』が創元社から今月8/27発売だワァ(n'∀')η゚*。:*!

本のリストの本

本のリストの本

https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E6%9C%AC-%E5%8D%97%E9%99%80%E6%A5%BC-%E7%B6%BE%E7%B9%81/dp/4422930869/

8/13追記

書物蔵(しょもぐら)名義で本を出したのは、去年出した『昭和前期蒐書家リスト』でだけでござる(´・ω・)ノ
shomotsugura.hatenablog.com
いちおー国会図書館にも納本しておいたですよ(σ ・∀・)

森洋介さんに褒められた話

2013年10月3日の昼、3F喫茶で三人で飯を食ってた時の話(´・ω・)ノ

優生学統計学の応用で、全体の話と個人への対処を混同したら、悲劇になるようだね、という話をしていて。
統計学を図書館学に応用したのが、書物蔵のリスク管理論だなぁと森さん。さらに森さんはこんなことを言う

書物蔵さんが言うような理の当然ってサァ、それが受容者にとってもスッと入りすぎると、それを説いた文献の独創性がむしろ意識できないようになるんだよネェ

わちきの説、文章でも口頭でも結構盗用されんのよね(゜~゜)なんでだろ(。´・ω・)?と思ってたら、さういふ理路だったかぁと得心したことぢゃった。

森洋介さんにディスられた話

これもおそらく2013年

書物蔵さんは日本語のことばとか知らない。英語はともかく。
アメちゃんの図書館にカブレてる。パンパン図書館学か!
「ミーはアメリカ帰りのライブラリヤンざんす」とか(σ・∀・)

(〃^∇^)o_彡☆
わちきの図書館学が基本米国流であることは意識しておいたほうがいいね。
さもなくば、戦争中の増田七郎のように図書館の日本性を唱えて日本主義図書館学を創造してしまいそう
(σ^~^)σ

警視庁統計

コロナ禍の宣言下、ざっさくプラスなど契約DBがネット民に公開されたことだったが、その中に、府県別統計書のDBもあった。大変ありがたく拝読したのだが、これを見て感じたのは、東京府だけ抽象度が高くて実態がよくわからんなぁということ。ちょっと考えてどうしてそう感じたのかが分かった。東京だけは東京市のことの統計、というか警視庁なる特殊な役所の統計のほうが実態を

かきかけ

本をみんなで楽しんだ明治大正の魚山村:『「本読み」の民俗誌』

近視眼的に考えると、本は個人で自由に勝手に黙って読むもの!と言ってはばからないむきもある。しかし、歴史的にはどうだったか。ラジオやテレビから類推すれば、本でさえそうでなかったことが想定され、それを実証するのが本書、ということになる。

民俗学からの一撃!

次の本をほぼ読了。第三部は飛ばし読み。

「本読み」の民俗誌―交叉する文字と語り

「本読み」の民俗誌―交叉する文字と語り

  • 作者:川島秀一
  • 発売日: 2020/06/12
  • メディア: 単行本

著者川島, 秀一, 1952-は震災で自らも被災した気仙沼民俗学者。彼の問題意識は巻末の「まとめに」にあるように、どちらかというと読むより書くにあり、それを本書では「読む」ほうでまとめたもの。そういう文脈では、当方の本書の読み方は、読むほう、つまり読書史として読んでしまうので、著者の関心のコアからずれてしまうだろうが、本書の読書史研究上の重要性について指摘しなければならないという義務感にかられてこれを書きつけるものなり。
本書は1990年代から2000年代の論文を三部で構成しており、第一部が気仙沼地方の「本読み」という習慣、第二部は村で生成・書写されるテキスト(娯楽物と郷土史)、第三部は呪術と文字・文語文の関係。
honto.jp
一番当方と離れている3部のことを言えば、ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』を思わせる。おそらく本書の民俗学的な意義は、文書による伝承(書承)と口承を対立的に考えず、互換的に考えているところなんだろうな。
当方として興味があるのは1,2部で、とりわけ1部は、読書史、出版史で今まで実証的な研究がないと思われていた「地方の庶民の読者論あるいは読書史」の得難い史料となるだろう、というか、この先延々と、近代日本読書史で地方庶民の事例としてこればかりが引用され続けることになる絶対に。だって他にないんだもの。

明治大正期、岩手漁山村で本はどう読まれたのか

明治、大正期、どこからか*1持ち込まれた講談本(活版)が、作業のない期間、時間、場所で、読み上げられることによって皆を楽しませていたことが述べられているのだが、それが全部、何年生まれ誰の誰兵衛翁/媼とわかっている個人たち多数の証言だから、ものすご。
港から漁場へ移動する船上で、正月休みの家で、軽作業で家から一人づつ集まった子どもと老人たちの集団で。
イチバンのキモは。読み上げる人「本読み」(本が読める人、読み上げるのが得意な人)が、本の所有者とは限らないこと。
女性まで義務教育(小学校)が普及するのが明治末なので、それ以前に育っちゃった人たち、特に農村部だと大人は―財産に余裕があっても―本を読めない人が多いんよ。すると、どーなるか(σ・∀・)

〔小学生の自分が先生の家へ遊びに行って、先生の本棚に講談本を発見する……〕その難しい本の中の一角に似合でない、たくさんの講談本が並んでいたことでした。~私達は~借用して、縁側に腹這いになって面白い本を夢中になって読んだものでした。~
 さて、私はその本を読みだしますと、必ず近くで何かしていたお婆さん(工藤先生のお母さん)が来て「これこれ、お前さんが一人で読んでナェでなっす、声を出して読んでワダスにも聞かしてくんねなし」と云うのでした。致し方なく私は声を出して読みますと、お婆さんは非常に喜んで「この続きは又明日遊びに来た時に読んで聞かしてくんねなし」と云うのでした。
 誰にでもこの調子で、本を読んで貰っては、無類の素晴らしい記憶力で内容を総て覚えていて、後日になってから逆に私たちにその伝記等を驚くべき正確に〔ママ〕聞かせてくれるお婆さんでした。
 この素晴らしい頭のよいお婆さんでも明治以前、藩政時代に育った女の人の事とて、寺子屋にも行かされず、全く驚きのほかありません。

大正期には子供が大人にとっての「本読み」の役をやることもあったわけ。(σ・∀・)
これは本書では珍しく文献を引いている部分。藤原正造『南部杜氏ものがたり : 辛苦を越えた蔵人たち 思い出の郷土史』博光出版, 1995.7
お婆さんが、読めないけれどある種の「読者」として当然のこととして読める人―この場合、ムラで最高の教育(小学)をうけつつある小学生に読むよう要求している、その態度がオモシロいし、何かを暗示しているね。

村の本読み

著者の川島氏は読書史の人ではないから、前田愛、そして全知全能なる(皮肉だYOヾ(*´∀`*)ノ)彌吉光長を一般参照しとるけれど、ここでは一歩踏み込んで、前田愛が紹介していた、明治初期、東京の家庭で夜、文字の読めるお父さんが家族(お婆さんも含む)を集めて新聞小説を読み上げる場面が思い出される。
著者は「本読み」を、門付けの、家庭の、ムラの、の3つに分類している。上記の例、つまり、息子の教え子が家に遊びに来たので読んでもらう、というのは家庭の本読みということになろうか。
いま「本読み」が民俗語彙でどんな扱いなのかを柳田國男 監修『綜合日本民俗語彙 改訂』, 民俗學研究所 編著. 平凡社, 1970.10 で調べると、立項されてない。これは民俗学郷土史で出版物が軽視されていたからかしら? 東北特有だったから?

第2部は分析書誌学として読み換えられる

第2部「書物と語り」の、村で生成・書写されるテキストについては、「歌津仇討(ウタツ アダウチ)」なるお話が、どのような媒体で共同体に保存されえたのか、残っていた限りの伝本11種(1841年から1993年まで)をそれぞれ分析する。著者はもちろんテキスト分析して読み手の自意識の持ち方などを分析していくんだが、当方としては11種の伝本のメディア型式(最初、写本、明治25年に刊本。昭和前期ガリ版、平成期コピー本)といったことにも言及されている点が重要で。
たとえばガリ版の地方普及は大正9年あたりと『ガリ版文化史』年表にあれど、その根拠が不明で、でもこれをみたら確かに昭和初年に宮城では実用化されていたとわかるのであった。

  • 宮崎新七郎 編 『仇討夢艸之枕』日新館 1892

dl.ndl.go.jp
こういった明治の地方出版の前後に、口伝、写本、ガリ版、ノートといった共同体に埋め込まれた個人によるテキスト保存のコンテクストがあったとは(@_@;)
オモシロヾ(*´∀`*)ノ゛キャッキャ
第2部は分析書誌学といってもいいだろう。「女川口説」(オナガワ クドキ)と言った話も分析されている。ただ、ちょっと込み入っていてわかりづらい。

全体として

全般に、地元人にしかわからない地名満載なので、本当にマジに読むんだとGoogleマップを見ながらになるかと(´・ω・)ノ
にもかかわらず、読書史に興味のある人はぜひ読まれたい。とくに第一章。
日本人の読書史を実証的に追いたければ、ルビンジャーで江戸時代のリテラシーを、近代読書史の表面(都市やインテリ)は前田愛永嶺重敏を、裏面はとりあえずこれ、ということになるだろう。もちろん柴野などの出版史も補足とならん。
民俗学的に読めずに申し訳ないが、本は「密漁」(@シャルチエ)されるものニテ(^-^;)とりあえず。

おまけ

本書の巻頭論文は、ネットでただで読めちゃう(σ・∀・)

https://ko-sho.org/page/activity/kikanshi/kikanshi-2000.html

*1:わちきが答えを知っているのは出版流通史からアプローチしているから。本書は享受場面なので検討されていない。

地域資料の復権

次のものを読了す。

  • 『ライブラリー・リソース・ガイド』(LRG)第31号 特集「図書館からLibraryへ」責任編集:福島幸宏

中小レポート(1963)以来、やっちゃダメ、と言われつづけていた地域資料論を、むしろこれからやるべき、という提唱。
LRG誌はこの号からゲスト編集者を立てた形式にするよし。米国の”Library Trends"みたい(・o・;)