書物蔵

古本オモシロガリズムーー古本マニアの日々是趣味の人

本をみんなで楽しんだ明治大正の魚山村:『「本読み」の民俗誌』

近視眼的に考えると、本は個人で自由に勝手に黙って読むもの!と言ってはばからないむきもある。しかし、歴史的にはどうだったか。ラジオやテレビから類推すれば、本でさえそうでなかったことが想定され、それを実証するのが本書、ということになる。

民俗学からの一撃!

次の本をほぼ読了。第三部は飛ばし読み。

「本読み」の民俗誌―交叉する文字と語り

「本読み」の民俗誌―交叉する文字と語り

  • 作者:川島秀一
  • 発売日: 2020/06/12
  • メディア: 単行本

著者川島, 秀一, 1952-は震災で自らも被災した気仙沼民俗学者。彼の問題意識は巻末の「まとめに」にあるように、どちらかというと読むより書くにあり、それを本書では「読む」ほうでまとめたもの。そういう文脈では、当方の本書の読み方は、読むほう、つまり読書史として読んでしまうので、著者の関心のコアからずれてしまうだろうが、本書の読書史研究上の重要性について指摘しなければならないという義務感にかられてこれを書きつけるものなり。
本書は1990年代から2000年代の論文を三部で構成しており、第一部が気仙沼地方の「本読み」という習慣、第二部は村で生成・書写されるテキスト(娯楽物と郷土史)、第三部は呪術と文字・文語文の関係。
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一番当方と離れている3部のことを言えば、ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』を思わせる。おそらく本書の民俗学的な意義は、文書による伝承(書承)と口承を対立的に考えず、互換的に考えているところなんだろうな。
当方として興味があるのは1,2部で、とりわけ1部は、読書史、出版史で今まで実証的な研究がないと思われていた「地方の庶民の読者論あるいは読書史」の得難い史料となるだろう、というか、この先延々と、近代日本読書史で地方庶民の事例としてこればかりが引用され続けることになる絶対に。だって他にないんだもの。

明治大正期、岩手漁山村で本はどう読まれたのか

明治、大正期、どこからか*1持ち込まれた講談本(活版)が、作業のない期間、時間、場所で、読み上げられることによって皆を楽しませていたことが述べられているのだが、それが全部、何年生まれ誰の誰兵衛翁/媼とわかっている個人たち多数の証言だから、ものすご。
港から漁場へ移動する船上で、正月休みの家で、軽作業で家から一人づつ集まった子どもと老人たちの集団で。
イチバンのキモは。読み上げる人「本読み」(本が読める人、読み上げるのが得意な人)が、本の所有者とは限らないこと。
女性まで義務教育(小学校)が普及するのが明治末なので、それ以前に育っちゃった人たち、特に農村部だと大人は―財産に余裕があっても―本を読めない人が多いんよ。すると、どーなるか(σ・∀・)

〔小学生の自分が先生の家へ遊びに行って、先生の本棚に講談本を発見する……〕その難しい本の中の一角に似合でない、たくさんの講談本が並んでいたことでした。~私達は~借用して、縁側に腹這いになって面白い本を夢中になって読んだものでした。~
 さて、私はその本を読みだしますと、必ず近くで何かしていたお婆さん(工藤先生のお母さん)が来て「これこれ、お前さんが一人で読んでナェでなっす、声を出して読んでワダスにも聞かしてくんねなし」と云うのでした。致し方なく私は声を出して読みますと、お婆さんは非常に喜んで「この続きは又明日遊びに来た時に読んで聞かしてくんねなし」と云うのでした。
 誰にでもこの調子で、本を読んで貰っては、無類の素晴らしい記憶力で内容を総て覚えていて、後日になってから逆に私たちにその伝記等を驚くべき正確に〔ママ〕聞かせてくれるお婆さんでした。
 この素晴らしい頭のよいお婆さんでも明治以前、藩政時代に育った女の人の事とて、寺子屋にも行かされず、全く驚きのほかありません。

大正期には子供が大人にとっての「本読み」の役をやることもあったわけ。(σ・∀・)
これは本書では珍しく文献を引いている部分。藤原正造『南部杜氏ものがたり : 辛苦を越えた蔵人たち 思い出の郷土史』博光出版, 1995.7
お婆さんが、読めないけれどある種の「読者」として当然のこととして読める人―この場合、ムラで最高の教育(小学)をうけつつある小学生に読むよう要求している、その態度がオモシロいし、何かを暗示しているね。

村の本読み

著者の川島氏は読書史の人ではないから、前田愛、そして全知全能なる(皮肉だYOヾ(*´∀`*)ノ)彌吉光長を一般参照しとるけれど、ここでは一歩踏み込んで、前田愛が紹介していた、明治初期、東京の家庭で夜、文字の読めるお父さんが家族(お婆さんも含む)を集めて新聞小説を読み上げる場面が思い出される。
著者は「本読み」を、門付けの、家庭の、ムラの、の3つに分類している。上記の例、つまり、息子の教え子が家に遊びに来たので読んでもらう、というのは家庭の本読みということになろうか。
いま「本読み」が民俗語彙でどんな扱いなのかを柳田國男 監修『綜合日本民俗語彙 改訂』, 民俗學研究所 編著. 平凡社, 1970.10 で調べると、立項されてない。これは民俗学郷土史で出版物が軽視されていたからかしら? 東北特有だったから?

第2部は分析書誌学として読み換えられる

第2部「書物と語り」の、村で生成・書写されるテキストについては、「歌津仇討(ウタツ アダウチ)」なるお話が、どのような媒体で共同体に保存されえたのか、残っていた限りの伝本11種(1841年から1993年まで)をそれぞれ分析する。著者はもちろんテキスト分析して読み手の自意識の持ち方などを分析していくんだが、当方としては11種の伝本のメディア型式(最初、写本、明治25年に刊本。昭和前期ガリ版、平成期コピー本)といったことにも言及されている点が重要で。
たとえばガリ版の地方普及は大正9年あたりと『ガリ版文化史』年表にあれど、その根拠が不明で、でもこれをみたら確かに昭和初年に宮城では実用化されていたとわかるのであった。

  • 宮崎新七郎 編 『仇討夢艸之枕』日新館 1892

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こういった明治の地方出版の前後に、口伝、写本、ガリ版、ノートといった共同体に埋め込まれた個人によるテキスト保存のコンテクストがあったとは(@_@;)
オモシロヾ(*´∀`*)ノ゛キャッキャ
第2部は分析書誌学といってもいいだろう。「女川口説」(オナガワ クドキ)と言った話も分析されている。ただ、ちょっと込み入っていてわかりづらい。

全体として

全般に、地元人にしかわからない地名満載なので、本当にマジに読むんだとGoogleマップを見ながらになるかと(´・ω・)ノ
にもかかわらず、読書史に興味のある人はぜひ読まれたい。とくに第一章。
日本人の読書史を実証的に追いたければ、ルビンジャーで江戸時代のリテラシーを、近代読書史の表面(都市やインテリ)は前田愛永嶺重敏を、裏面はとりあえずこれ、ということになるだろう。もちろん柴野などの出版史も補足とならん。
民俗学的に読めずに申し訳ないが、本は「密漁」(@シャルチエ)されるものニテ(^-^;)とりあえず。

おまけ

本書の巻頭論文は、ネットでただで読めちゃう(σ・∀・)

https://ko-sho.org/page/activity/kikanshi/kikanshi-2000.html

*1:わちきが答えを知っているのは出版流通史からアプローチしているから。本書は享受場面なので検討されていない。