書物蔵

古本オモシロガリズム

場所や物、事件で思い出されるもの

 こんなことは民俗学で言われていることだろうけれど、具体的な場所や物、事件をきっかけにして思い出されるもの、これが雰囲気を感じさせる記述に結実するんよ。当時、それらに接していた人物――多くは私だが、場合によっては友人など他の人――の認識を記述することになる、と言ってもよい。
 「自由な雰囲気」「暖かい雰囲気」「冷たい雰囲気」「事務的な雰囲気」といった雰囲気は、組織図や決裁文書からはほとんどわからず、実際にそれを動かしていた人や動かされていた人の認識からしか記述できないわけ。
 そういった認識は、本人および周りのオペレーション発生時にも記述可能ではあるけれど、わりと短慮的になりがちで――「当時は怠け者の上司をけしからんと思ったが、あとから考えると、むしろ「やりすごし」*1の合理的な動きだった」とか――ほんとうは少し時間を置いたほうが、よりよい記述になりえる。
 もちろん時間がたって記憶のみに頼ると、事実関係にあいまいさや錯誤がまぎれこんでくるものなんだけれど、それは他の資料で補えばよくて、「思い出」という形で要約され、価値づけられた物語のコアの部分は、なにものにも代えがたい気づきに満ちているというべきだ。決して逆ではない。
 逆というと、十年まえのある部署の暴走ぶりを思い出としてメールに書いたら、それは公文書に書いてないぐらいの頓珍漢な批判をしてきた御仁がいたけれど、悪い意味で「田舎のガリ勉」タイプには、プラウダ信仰といわんか、(公)文書主義にこりかたまる向きがある。これには要注意だ。個々の文書から合算して自動的に事柄の位置づけがでてくるのではなく、先に認識があって――たとえそれが紙に書かれたものでもよい――あとから文書を含めた実証があるのであって、決して逆(つまり、個々の集積から自然に重要事がでてくるとする見方)ではないと思う。第一、それはつまらない。

*1:これについての研究書がちゃんとある。この場合、上司の上司が間違っていたが、他人の言うことを聞かない人だった。