書物蔵

古本オモシロガリズム

小説:動く図書館の研究3

せっかく司書の仕事に慣れてきたのに…
サンペーは生まれつき体が弱く、コネで鐘ヶ淵紡績の人事管理担当に廻してもらったにもかかわらず根っからの凝り性からか熱心に仕事しすぎてしまい体を壊してしまっていたのだった。
戦前期、図書館司書などを志望してくる者、特に男には、病気もちが多かったのはあまり語られない事実である。実際、戦前期司書のエリート中のエリートたる東京帝国大学の「司書官」たちについて、みんないい人たちだったが、みんな病気もちだったという証言が残っている。
サンペーは、カネボウこそ勤まらなかったが、それでも社会参加の念やみがたく、体力が回復してから再び、開館して5,6年しかたっていなかった郷土の市立図書館へ書記(今でいう事務員)として就職したのであった。
もちろんこの就職も、家が当時はおちぶれていたとはいえ、2代前には村長を拝命して郷土の偉人として称えられるという人物(サンペーたんと同姓同名である)を出した地方名望家の家柄であったことが幸いしたのは言うもさらなり、であろう。
サンペーが書記として就職した時にはすでに、草創期のドタバタは治まった後であった。
館長は学校教師から転職組の秋田であった。この時代だけでなく実は戦後も、社会教育は学校教育の類縁であらうとて、教職にあった者を充てる(いはゆる充て職か?)ようなことがあたりまへのこととして行われていた。
秋田もまた、視学までのぼりつめてから図書館長に配転されてきたものであった。温厚な、いい人である。
サンペーは彼のもとで市立図書館創業以来の業務に一生懸命、努力しやうとしていた。
ところで秋田は官制上、初代の館長でありながら実際には彼の前に事実上の館長を務めていたものがいた。
それが(つづく)