大東亜ト学にひょっこり顔をだす市河彦太郎さん。
あんまり有名じゃなかったのかといえば、戦時中はむしろ有名なほうだったみたい(・o・;)
大東亜人名録ともいうべき、『大衆人事録(14版)』(昭18)の復刻版には、第5巻の海外の部p.3に出てくる。たいした記述はないけど留守宅は淀橋区諏訪町。
朝日新聞によれば、昭和16年3月8日、羽田を旅客機「穂高」号で飛び立ち、イランへ赴任。
その次の年、昭和17年5月に退去することになって、陸路で帰ろうとして。
独ソ戦以来、郵便物しか出入りしなかった満洲里(北満洲の国境の町)にひょっこり姿をあらわした。
交換船ならいざしらず、陸路、日本に帰ってきたヒトはめずらしいから結構新聞ネタになっている。
もちろん、われらが大東亜ト学にとっては、イラン公使としての活躍よりも、文化事業部の課長時代の活躍のほうが気にかかるのだけどね。
ちょっと意外だったのは、土壇場にきて、情報局の部長をやっていたこと。昭和20年9月11日の読売に出てきて敗戦後の文化日本について語っている肩書きが「情報局第二部長」。これに任命されたのは、わちきの憶測では昭和20.8.6あたり? 国立公文書館に任免関係の文書あるみたい。
終戦後には、内閣辞令(1945.10.31付)で東北帝国大学教授に任ぜられとるね(朝日新聞による)。これは情報局がGHQによって機能停止されたからだろうなぁ。でも、東北帝大のほうはそうそうにやめてしまったような気がするですよ。
戦時中、むしろ有名人だった市河公使は、戦後、あまり知られないようになってしまった。
ひとつにはやはり、早逝してしまったということがあげられよう。
『朝日新聞人名総索引』(日本図書センター, 2004)の戦後のとこを引き、縮刷版にあたると、市河さんの訃報がみつかる。『昭和物故人名録』(日外1983)にはなぜか見あたらず。
市河彦太郎氏(外務省嘱託、元イラン公使) 一日郷里沼津市我入道公会堂で友人の選挙応援演説中昏倒、死去した、享年五十一、東京都世田谷区下馬の自宅にかよ子夫人と二児がある(沼津発)
『朝日新聞』(昭和21.4.3)
うーむ。当時としては相応の歳なのかもしれないが、やっぱり回想録とか書いてほしかったわん。
いちど引用した(2007/4/7(土) )『日本外交史辞典』の略歴に上記を足しこむと次のようになる。
市河彦太郎 いちかわひこたろう 1896-1946 略歴(かきかけ)
1896 | 静岡県沼津生 |
1920 | 東京帝国大学法学部(政治科)卒 |
1920?〜 | 外交官 天津 ロンドン カルカッタ シカゴ(1927-1930) フィンランド |
1937.7 | 文化事業部第三課長 |
1938.12 | 同 第二課長 |
1940 | 興亜院 |
1941.3 | 特別全権大使 イラン駐さつ |
1942.4 | 国交断絶のため引揚げ 入ソ |
1942.5 | 帰国 満洲経由 |
1945.8.6? | 情報局第二部長 |
1945.10.31 | 東北帝国大学教授 |
1945.? | 外務省嘱託 |
1946.4.1 | 沼津市で演説中倒れ死去 |
追記(2008.5.27)
『外交と生活』より在シカゴの年代を追記す。
追記(2011.2.19)
オタどんのご指摘により、文化事業部第二課長就任を1938.12に変更す