レファ神の年譜を作ろうとしたら、意外なことにどの著者略歴にも、具体的な年が乏しい。
ある役職に何年間いた、という書き方を最初から最後まで志智さんは踏襲している。なんかこだわりがあったのか?
非常に困るが、なんとか再現してみた。
筆名:志智嘉(よみす),草香新之助,江井洋三
年代 | 歳 | 事項 | 典拠 |
---|---|---|---|
1909(明42)3.24 | 0 | 淡路生(追記:津名郡一宮町) | 図雑1951.12 |
? | ? | 京都一中 | 1986 |
1927(昭2) | 18 | 第七高等学校入学 | 1992 |
1934(昭9) | 25 | 東大支那文学科卒 | 図雑1951.12 |
1年間 | ? | 京大大学院 | 1986 |
1935(昭10) | 26 | 洲本中学校教諭 | 図雑1951.12 |
? | ? | 尼崎中学校教諭 | 1986 |
1939(昭14) | 30 | 渡支(興亜院華北連絡部文化局就任のため) | 図雑1951.12 |
1940(昭15)1.23 | 30 | 興亜院属任官(在北京日本大使館調査官) | 公文書 |
1945(昭20)10.末 | 36 | 天津総領事館へ出向 | 1969 |
1946(昭21)5. | 37 | 華北最後の引揚船で帰国 | 1969 |
1948(昭23)1.10 | 39 | 神戸市立図書館長(市長の懇望) | 年史訃報 |
1958(昭33) | 49 | JLA参考事務分科会初代会長 | 訃報 |
1961(昭36)5.1 | 52 | 神戸市教育委員会指導部長(館長兼務) | 1969年史 |
1962(昭37)7.23 | 53 | 欧米外遊(約一ヶ月半) | 年史 |
1964(昭39)4.1 | 56 | 退職 | 年史 |
6年間 | ? | 甲南大学講師 | 1986 |
3年間 | ? | 松蔭女子学院大学講師 | 1986 |
1971(昭46) | 62 | JLA参与 | 訃報 |
9年間 | ? | 園田学園女子大学教授 | 1986 |
1978(昭53) | 69 | 以後毎年中国旅行 | 1986 |
1981(昭56) | 72 | JLA顧問 | 訃報 |
1995(平7)1.17 | 86 | 阪神淡路大震災で罹災 | 伊藤1995 |
1995(平7)4.28 | 86 | 死去 | 訃報 |
典拠追記:
『図書館雑誌』(1995.6)p.408-9 訃報
神戸市立図書館60年史. -- 神戸市立図書館, 1971.3
典拠として1986の本は意外と役にたたず、1969年のエッセイが役立ったのは意外。さらに図書館雑誌(1951.12)が役に立った。期待していた『回想・私と図書館』は志智特有の年号表記のせいで役立たず。
いま差別語の語源は調べてもなかなかわからない
今となっては差別語とされる表現の語源らしき記述を発見。
ルスキーが露助になったようなものか。これはハルピン学院出のおじいちゃんがさかんに言っていた。
(のち近衛内閣の文相となる橋田邦彦を北京の骨董屋に案内し、14円といわれたものを1円80銭まで値切ったことにからめて)
相手は中国の商人、ポコペン、正しい中国語で言うと「ぷ・こう・ぺえる」、つまり元を切って売るようなことは絶対にありようがなく(後略)出典:志智(1989)p.85
ちなみに志智は著書(1942)で、「支那」がいけないのなら「china」もいけないはずで、首尾一貫しないと指摘しているというが(北原2001)、その志智は戦後の自著では中国をつかいつづけている。自分の出た学科は「中国文学科」としている。
追記:ウィキペディアにポコペンが立項されており、語源もあることがわかった。