書物蔵

古本オモシロガリズム

家畜人ならぬ図書館人だった!

これ↓はよくみるけど安かったんで
裁判官の書斎 / 倉田卓次著 ; [正]. -- 勁草書房, 1985 200円
いまみたら,なんと!

謹呈 著者
○○憲正様(これは手書き)

というしおりと,つぎのワープロ文書が!

拝啓 (略)早いもので 小生公証人になってから間もなく満二年になります
(略)製本ができて来 帯をみせられすると 気恥ずかしさが先に立ち(略)昔論文集を出した時のそれなりに逸った気負いのようなものは露感じられません
(略)定年まで裁判所にいれば 退官記念に自費出版してお配りしたかも知れぬ本 そんな気持ちでいます(後略)
昭和六〇年六月 倉田卓次

このひと,定年前にやめたんだねぇ。なして?(ってジュンク堂書店日記にそれらしい記述が)

金森徳次郎に惹かれて…

ところで…
これは図書館本なのか? そう,実は仮性図書館本。なぜってこの人,図書館員だったんだもん。

裁判官になる前に半年ほど図書館に勤めたことがある。
学徒出陣して外地から復学した関係で,大学卒業は昭和二三年九月になった。(略)「立法考査局」とて議員立法へのレファランス・サーヴィスをする部門があるから法科出がいるのだ,という説明だった。(略)面接試験の際の金森徳次郎(注,新憲法の生みの親として当時知らぬ者がなかった)館長の風貌にも惹かれるものがあって,採用を希望し,主事補になった。
(略)
「初めから立法のレファランスというわけではないよ」と金森さんに言われたとおり,配属されたのは受入整理部で,新入図書にナンバリングを押したり,索引カードを作ったりするのが仕事であった。(略)生涯をライブラリアンで通す方向に半分以上心が傾いていたのである。だから終業後開かれる図書館学の各種講座にも積極的に出た。(「国会図書舘にいたころ」初出は『佐賀県立図書館報』昭和53年)

ほへー('0'*) びくーり!
家畜人かと思ってたら図書館人だった(って,なに言ってるか,わからない?)! むかし,家畜人の角川文庫版あとがきを読んで,学徒出陣して苦労?したのね,と涙したものだが…
それはともかく。
わちきの図書館趣味からいえば,「レファランス」というカタカナ表現をつかってるところがオモシロい。referenceのカタカナ表記は,その後,館界では「レファレンス」という形で安定したけど,当初は「リファレンス」とも書いたのだ。倉田さんは,また微妙にちがう表記だけども,とにかく終戦直後の館界をひきずった形で(なにしろその後はずっと裁判官をやっていたらしいから),業界定番の表記でないところが極めて興味深い。

だから終業後開かれる図書館学の各種講座にも出た。NDC(日本十進分類法)の特訓,戦前戦後世界各国のエンサイクロペデイアの比較を実証的にやるレファランス講座の百科事典特講,などきわめて有益だった。

この百科事典特講の先生は,「そのお名前をどうしても思い出せないのだが」と倉田さんは書いてるけど,彌吉光長か,柿沼介かなぁ… 調べれば分かるね。

こう書くと勉強ばかりしていたようだが,そんな勤勉な人間ではない。職員として蔵書が自由に借り出せるのが魅力の一つだった。例えば,当時発禁になった『チャタレー夫人の恋人』んども発禁前の版で借りて読んだ。文学研究会のグループにも入れて貰った。(略)

「職員として蔵書が自由に借り出せるのが魅力」と書いているけど,まったく同じ趣旨のことは,森銑三も言ってたねぇ。この,職員が自分の図書館の蔵書を借りることについちゃぁ,わちき,一家言あるんだわさ。「本を読まないオバカ司書」で半分くらい論じたけどね。

年末には高文の結果が分かり通っていた。議員立法アメリカ並みになる可能性は少ないように思えたし,他の事情もあって,結局ライブラリアンの道は捨て,図書館員としては未熟のまま終わったが,得るところ多かったこの半年間を今もなつかしく想起する。
それにしても私の下手糞な字で書いたあのカード,今でもボックスの隅に残っているのだろうか。

あそこは1990年代半ばから続々とカード目録を廃棄しつつあるね。