書物蔵

古本オモシロガリズム

 「2ちゃんねる」のメディアとしての信頼度

電車のなかで「スパ」を立ち読み(途中で座れた)。冒頭からWinnyファイル交換ソフト)がらみのウイルスで退職に追い込まれてしまった国税専門官のこと。そういえばこのまえ「ユリイカ」を書店で立ち読みしたら、小谷野敦氏が2ちゃんねるのことを批判してたっけ。
2ちゃんねるという匿名掲示板は最初、ホイッスルブロアー(内部告発者)として期待されていた。実際、国会審議で野党議員が「2ちゃんねるに書いてあるんですよ」とやってたし。
2ちゃんの図書館情報学的な検討については、初期のころ、某大学の某研究室の学部生さんの検討(といっても短いレポート)がネット上にあった。図書館情報学関係のスレッド(スレという。1条、2条とかの「条」の英語)の、ここの書き込み()を検証して、その信頼度を測るという簡単なもの。そのときには、たしか、まともな書き込みは1/3程度かそれ以下ということであった憶えがある。
まー、筑紫哲也氏がいったという「(○○の)落書き」なわけでして、そんなところだろうとは思います。ただ、ここでは、上記のような数量に還元できるような分析ではなくて、質的な話を。
まず、内部告発として機能するか? 私の狭い経験からいうと、しませんね。たとえば、さきに書いた某図書館の巨大システムの困難さについては、その図書館専用のスレではいちども話題にならず。へーんなの。ここ数年のあの図書館の最大の課題だったのにね。
私見では、2ちゃんねるは「みんなが何に関心があるか」ということはわかっても、それについての妥当な結論とか真実とかはあまり出てこないもんなんじゃないか。
最初の小谷野敦の批判にもどるけど、彼いわく「ネットの住人は、文献引用をしない(要旨)」というものがある。ある新書に、「結局、単行本の類はぜんぜんネットにでてこないじゃないか(要旨)」という指摘もあった。
文献世界でとっくに結論やヒントがでていることでも、くりかえしくりかえし最初から話をし、ぜんぜん議論がすすまないのがネットの世界ということなのだろう。
壮大な「賽の河原つみ」だと申し上げておこう。賽の河原にはまだ行ったことないけど、児童が石を積むという苦行をやらされているそうな。児童虐待なり。
ネット普及の初期におもったのだけれど、ようするにネット情報ってのは紙時代のチラシやら、文書に相当するなーと。
チラシが機械化されたのだから、たしかに便利。ある会合がいつ、どこでやるか、なんてことは紙時代とは比較にならないくらい判りやすくなった。慶賀の至りなり。
ブログなんてものも、備忘録にもってこい。わてのブログなんかも、日々の雑感を書き留めておくものだし。日記にもつかえるし。ってもともと日記か。
しばらくまえの朝日新聞記事で、米国では特定主題に特化した立派なブログがあるけれど、日本の場合にはいつのまにか日記になってしまうと(いつもの朝日節で)書いてあった。
日記でいーじゃありませんか(といいつつ、自分はかたくななまでに特定主題からでません)。
ブログのポータル・ブログ(?)で、ブログをNDC(日本十進分類)で配列しているものがある。面白い試みだと思うけど、ひとつ致命的なのは、(なんでもいい)あるブログが、最初は何々という主題をかかげて始まっても、それが続くとはかぎらないということだ。
朝日記事を信ずれば(わたしは怪しいとにらんどるが)、日本人は主題ブログがただの身辺雑記(日記)になっちまう傾向があるのだから、立派なネチズンだらけの米国と異なり、必ず失敗してしまうということになる。(というか、私自身、ある主題によろこんでブログを見に行ったら、もはや身辺雑記になってしまっていて、残念だった)
好意的に考えれば、書かれている内容じゃなくて、人物に対して主題を割り振ってることにしかならないねぇ。社会運動家の身辺雑記、図書館員の身辺雑記、日曜歴史家の身辺雑記、身辺雑記、。。。