書物蔵

古本オモシロガリズム

内務省検閲原本2

最初はこの片々たる1枚もの。

  • 東湖先生と正気歌. 大日本正気会. 1937.1 一枚

東湖先生と正気歌
昭和十人年一月十日印刷納本
昭和十二年一月十五日発行(定価金五銭)
不許複製
編輯発行兼印刷人 立林宮太郎
 茨城県茨城郡河和田村大字赤塚三七五 修史館
発行所(茨城県赤塚)大日本正気会

一枚を八つに折ったもの。奥付がちゃんとあるが、調べたところ、どこにも残ってゐない1枚。まぁ中身は正気歌が載っとるだけのものなんだが、オモシロいのは表紙にあたる部分に

赤ペン書き:内務省・納本(二)

とあるところ。これはおそらく、出版者がはが、内務省用の納本の、二部目だよとメモしたもの。
逆にいうと、内務省の受付窓口では、簡易すぎる形態の出版物は、そもそも受理印もナンバリングもされずに、そのまんま廃棄されてゐたらしい、とこの資料から推測できるわけである。これは、いままでにない推測ぢゃぞ(σ・∀・)σ
つぎはこれ。「こけしいはう」と読むのだらう。趣味の雑誌。

  • 木形子異報;9. 大坂市:木形子洞. 1936.3

表紙に内務省受理印「内務省/11.〓.16/(普通出版)」と、墨書き:納本
奥付は「昭和十一年三月十五日印刷/昭和十一年三月二十日発行」とあるから、おそらく3/14ごろに大坂市で投函して、3/16に内務省窓口に届いたのだらう。これも図書館系には収蔵されてをらん雑誌なり。

橘, 文策 || タチバナ, ブンサクとは:ジャーナリストにして大コレクター

昭和七年四月より同一一年五月まで、大阪市在住の橘文策氏が雑誌《研究》と《異報》を発行し、会員を集め、こけし領布した。当時としては唯一の公式な領布会で大規模であり、こけし趣味の普及に貢献大であった。(こけし辞典 188 ページ)
橘, 文策 || タチバナ, ブンサク - はNDL典拠上、正体不明の人物になっとるが、次のサイトによれば、本名、橘文二、明治31年11月18日徳島生れのデザイナーにして編集者だとぞ。
http://homepage3.nifty.com/bokujin/kanwa28.htm
かのプラトン社に山名アヤオとともに入社し、かの雑誌「苦楽」の題字をデザインしたのは橘だとも。

橘文策のこけし関係の年譜については、大阪こけし教室の「こけし山河・橘文策追悼号」に下記のように要約されている。
明治三十一年11月十八日 徳島に生る。本名文二。
昭和四年 道頓堀。筒井郷土玩具店こけしを知り、蒐集を始める。
昭和六年十月 第一回東北旅行。大阪。民俗談話に入会。木地屋の研究を始める。
昭和七年四月 木形子の会を結成、頒布を始む。
昭和七年四月 会誌木形子研究を発刊。
昭和八年八月 木形子研究(十二号)終刊。
昭和十年一月 木形子異報(木形子夜話会)発刊。

昭和十四年八月五日満州国通信社企画部長として満州新京に赴任した。
新京特別市西朝陽で終戦、昭和二十一年に引き揚げ。

昭和五十四年三月二十三日十八時三十分永眠。享年八十才。

戦後は神戸新聞社に勤務、その後、昭和50年まで武庫川女子大学教授。(橘氏よ、安らかに / 小野洸/あしなか. (162)p25〜26 1979-04)

大日本養正

この雑誌は「養正」の改題で、昭和17年に初号がでたらしいが、所蔵館は僅少。初号が熊本県立に、昭和18年分が明治文庫に、昭和19年、20年分が宮城県立にあるだけどいうもの。
それの内務省納本。
四月二十七日印刷納本、と印刷されとるのに、内務省受理印は「内務省/19.5.17/(出版雑誌)」となっとるところなぞ、いかにも戦中期における印刷おくれが現れてゐて結構な古本である。中身は、玄米で欠勤がなくなったり胃癌がなおったり、トンデモな。