書物蔵

古本オモシロガリズム

国際環境の変化と法制史

先ほどのわちきの「明治末から大正期の出版法制解釈って、わりと穏当で。」「明治、大正期は、わりと官僚もまともでのんびりしてたんだなぁ」に対して、森さんから電信。

 その通りですが、背景にはあまりのどかでない理由もあったかと愚考します。と言ふのは、一九一一(明治四十四)年に不平等條約改正が成るまでの日本は、文明國の仲間入りをしてゐることを諸外國に示さなければならなかった。從って、歐米列強文明國の建前通りに法を運用しようとする。

あゝ、さうぢゃった。友人が言ふてをったが、19世紀の国際法では、国際法が適用されるべき文明国と、それが不要な野蛮国の間に、半開架…ぢゃなかった半開化の国がちびっとあって、それが、オスマン朝ペルシャ、チャイナ、そしてジャパンだったんぢゃあ、なかったっけ。
半開化だから、多少、国の独立とか配慮してやんないといかんみたいな(^-^;)

たしか大正六、七年頃に當局の言論彈壓を批判した新聞が、檢閲が制度としてあるのはロシアのやうな野蠻な國くらゐだとか何とか言ってゐたやうな。
野蠻・半開を脱して文明國の體面を保つことが政府にとっても對外的に地位を築くために重要視されてをり、外聞を憚るといふ恥の意識ながらも國際感覺が猶存した。だからこそ檢閲以外の何物でもなくて言ひ訣のきかない事前檢閲制は避けられなければならなくて、その代りのちに、世界的に例を見ない事後檢閲・行政處分といふ日本的特異性が發達することとなった。
つまり近代法制度そのものが舶來品であったことが忘れられてdomestic(國内的)にdomesticate(飼ひ慣らし・馴致)されるにつれ、日本化された法外な法運用がなされてしまふ。一部のインテリや高級官僚(宇野愼三然り)はこれに違和感を持ったにしろ、衆寡敵せず。

なるへそ。インテリや中央官僚にとって当たり前の天皇機関説が、昭和になって否定されてしまふ、って図式とおんなしですの(´・ω・)ノ

同樣に昭和戰後の圖書館學も、敗戰の屈辱と先進國に追ひつけといふコンプレックスが薄まってジャパン・アズ・ナンバーワンや經濟大國といった自尊心が強まるに伴って、日本流に墮落したわけでせう。……などと、文明史風の大咄で文脈を捉へてみましたが、如何。

さうさう(≧∇≦)ノ
昭和30年代ぐらいまでは、忠実にアメリカ図書館学をなぞろうとしてたんだけど、イギリスから密輸入したモデルで貸出し運動大成功、もう、出羽守のゆーこと聞かなくっても威張れるよ、ってなもんで、米国図書館学の神髄、レファレンス・サービスを放擲しちゃった…(・∀・`;)