書物蔵

古本オモシロガリズム

小林麻実『図書館はコミュニティ創出の「場」 会員制ライブラリーの挑戦』の感想

ヒルズ図書館(my造語)については、いちど書いたことがあるが。。。
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20080104/p1
同じ主題の単行本が出たので読んでみた。

図書館はコミュニティ創出の「場」 会員制ライブラリーの挑戦 (ネットワーク時代の図書館情報学)

図書館はコミュニティ創出の「場」 会員制ライブラリーの挑戦 (ネットワーク時代の図書館情報学)

まぁ気持ち的には著者の意見にほぼ全面的に賛成なり。なぜ茶を飲みながら蔵書を読めぬのか。館内売店に書店を入れるべき。図書館で蔵書を買えたっていいぢゃないか!`・ω・´)o
じつは大昔、そんなことを有名な図書館学校を出た人に言ったらば、「アハハ、○○くんはオモシロいこと言うワねぇ(´▽`*)」
いやサ、別にオモシロなことを言おうとしてたんぢゃなくて、理の当然、論理的必然としてつっこんだまでだったのだけれど…(-∀-;) まぁ、その時々の「正しい答え」を反芻する「おべんきょ」が好きな人は図書館業界に多いので(*´д`)ノ 当時は「上品さ」のなせるわざかと思うてをったが、最近ではバカなだけではなかったかと(・∀・) ってどっちが(^-^;)

心情的にはほぼ賛成

ということで、心情的意見としてはほぼ賛成。
ただ、学術出版社の出す本としては、仮想敵(従来日本の司書や図書館、および「図書館情報学」のイメージ)がやや通俗にすぎるキライがあり、著者がこれからアカデミズムに進むのであれば、それが弱点となりはすまいか、という危惧をおぼえるなぁ(*゜-゜) もちろん、六本木ライブラリー成立史としてみれば、やはりオモシロい指摘が多々あるし、それでいいのだけれど。
現状批判で、米国初期のライブラリーカンパニーのことが出てくるのは当然として、やはり日本の戦前期「私立」公共図書館の栄光(大橋図書館など)には触れて欲しいところではある(くどいようだけどアカデミック性をまとわせたいならば)。

天は自ら助くる者を助く!「セルフ・レファ」?!

オモシロなこともいろいろある。たとえば、本来の意味のビジネス支援など初手からトーテイできぬ(そんな司書など日本にゃおらん)ので、利用者自身に講習などして自分でレファレンス・ワークをしてもらうことにするとか(日本レファレンス論にいる2人の斎藤先生のうち片方がいう「セルフ・レファレンス」)。

ん?(・ω・。) 知識経営?

ナレジ・マネジメンのとこは、ライブラリーにちょっとうまくくっついていない気も。そういえば、このまへ読んだ柳与志夫『知識の経営と図書館』ってーのも、実はかなり同じベクトルのような…http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20090308/p2

場所としての図書館論

SNSみたいなことを、場所としての六本木ライブラリーでやりたかったという中ほどの話はオモシロかった。場所としての図書館において、

本は「山車(だし)」なんだなぁ(*゜-゜)

とつよく思う。で、それでイーのだ(。・_・。)ノ とくに米国のM&Aで、むりやり一緒させられた元ライバル会社員同士が仲良くなるのに、本の貸し借りをきっかけにさせたというくだりはなーるほど。

「本探しは人探し」逆もまた真なり〜

本は、人格が(部分的に)化体したもんであれば、本を介したつながりは、人(の、よい側面)を介したつながりでもある。ライブラリー・カンパニーもそうだった。
米国のレファレンス・サービスにはデフォルトでレフェラル・サービスが含まれていた。「質問に答えるに本によらず(答えられる)人を以ってする」というのは、むしろ米国であたりまえだったのに対して、日本では、やれまちがったら困るだの、推薦しているわけぢゃありませんだの、業務独占に触れちゃいますだの、といって、レファの導入そのものに失敗した(*゜-゜)

日本図書館史トリビア(*´д`)ノって、あんたも好きねぇ(・∀・`;)

昭和20年代志智嘉九郎はなんと言ったか!`・ω・´)o

レファレンス・サービスとは、「問事処」である

と言ったのである。問事処とは近代初頭のちうごくで、道端に机をだして民衆の相談に役所が答えるというもの。べつに全部が資料に依拠してるわけでもなし、当時ちうごくの民衆と識字者の圧倒的知識格差を考えれば、まさしく問事処は、民衆の「参照」相手であったのだ。
と、省令科目「図書及び図書館史」にゃ絶対でてこない話で終わり(≧▽≦)ノ