書物蔵

古本オモシロガリズム

台湾愛書会が書誌学史、図書館学史に占める位置

あんま元気がないと連発してもツマランので、ここで仕込み記事をつっこんでみる。
〜〜〜
畏友オタどんが拾ってきたお題に「台湾愛書会」がある。
さういへば、わちきの幼少のみぎり、担当教員は台湾帰りであった…

台湾愛書会の業績:古書に書誌で文学で図書館学

「愛書」と聞くと、ははン、古書マニアね、とひとことでかたづけられちまうだろーけど、さにあらず。実はこの会、台湾における古書即売会のはじめとも関係し、文学、書誌学はいうにおよばず、わちきのいう大東亜図書館学にも資するところ大なのである。
まず、この会の関係者が「台湾書物同好会」として、台湾初めての古書即売会濫觴に絡んでいたのでは、という推測がなされている(沖田:2007)
植民地文学、書誌学上の貢献については、途中から会の中心人物になった西田西川満がらみの研究が最近、でてきたやう。
そして図書館学では… のちにトンデモめずらか爆裂レアな図書館本『書病攷(しょびょうこう)』を書くことになる沢田兼吉が台湾愛書会に所属しており…(別項予定)
と、古書即売会、植民地文学、書誌学、図書館学の母体となった団体なのであった。

すべては「台湾図書館週間」から始まった(武田:1933)

きっかけは、昭和8年1月13日夜のラジオ講演。
あたかもこの月、台湾図書館週間(第2回)の開催中であり(台湾は日本本土との気候の違いから図書館週間は1月に設定されていた)、その催しの一環としての放送であった。
河村徹(台湾日日新報社社長)と、植松安台北帝国大学教授)によるもの。
このラジオ講演後、河村社長と山中樵台湾総督府図書館長)で話がもりあがり、それが植松に伝わって、「さればともかく一会を催し、各自珍書を持ち寄って一夕を歓談に過さうといふ事になり」、2月13日に台北鉄道ホテルで宴会が催された。
出席者は、「台日側が河村〔徹〕社長に大澤〔貞吉〕主筆、督府図書館は山中〔樵〕、市村〔栄〕、台大側は植松〔安〕、瀧田〔貞治〕に田中〔長三〕、澤田〔兼吉〕、武田〔虎之助〕と合して九名」だった。
これより3年前から「台北帝大の同好者が中心」の私的な「書物の会」(昭和四年頃に台北帝大文政学部の一部の教員で組織という(松浦:2007))が活動していたが、河村社長の提唱で、この会の「拡大強化を実体として」新しい会が生まれることに。
つぎの会合(4/12)で同人に2名(矢野禾積、島田謹二)を加え、「台湾愛書会」と会名を定めた。そして会合後、会長を幣原坦(しではら・たん;台北帝国大学総長)に依頼。
3回目の会合(4/25)は神田〔喜一郎〕が加わり、会誌「愛書」を出すことに決定。
具体的にはつぎの展覧会、講演会から華々しく活動を開始した。

5/6-7「書誌に関する展覧会」(会場:台湾日日新報社講堂)400名余が来場。実費の目録150部がはけた。
5/7夜は講演会(会場:同所) 開会の辞(大澤) 「愛書と国富」(田中長三) 「川柳・狂歌に見ゆる読書子」(植松安) 聴衆100余名。

かくして台湾愛書会の活動は開始されたのである。

台湾愛書会設立趣旨から

第二条 本会は東西書誌に関する事項を調査研究し兼ねて愛書趣味の普及発達を図るを以て目的とす

発起人(五十音順)
阿部文夫  幣原坦 
市村栄  島田謹二
植松安  瀧田貞治
大澤貞吉  武田虎之助
河村徹  田中長三郎
神田喜一郎 矢野禾積
澤田兼吉  山中樵

これらの面々はみな、各界の有名人であるけれど、ここで興味をもった人物についてチト書いてみませう。

例えば阿部文夫(あやお)という人

まずは一番有名でないと思われる阿部文夫についてチトぐぐってみると…
「よみ」は「あべ・あやお」(サトウ:2002)。東京帝大心理学専修第一回卒業生(1905)であるという。千葉県立園芸専門学校に在籍していたころ、1915(大正4)年に日本育種学会に参画。1919年に台湾総督府農林専門学校教授に任官。一時期は優生学に入れ込んで、第8回国際優生団体連盟(IFEO)に出席したり(1929)、日本民族衛生学会(1930-)地方理事になったりしている。1936年ごろに台湾総督府視学官で退官。著書は育種学、優生学など数冊ある。NDL-OPACの著者標目で生没年不明の「アベ, フミオ」と「よみ」がついているもの。

河村徹(1884-?)

台日社長の河村徹は明治17(1884)年生まれ。東大法学部卒。台湾で官吏をしたあと新聞社へ。趣味は「読書〔、〕運動」とある(『大衆人事録 14ed.』1942,43)。1944年4月1日から発刊された『台湾新報』の取締役会長も務めている(読売1944.3.28,p.2)戦後の経歴は不明。まあ公職追放されたのだろうが。
『台日』とは、『台湾日日新報』という新聞社。台湾日刊紙の最大手。ってか御用新聞
台湾最初の古書即売会に会場を提供し、古本屋史的に重要な役割をはたしているが、社長がもともと愛書家だったのですなぁ。

山中樵

もちろん、わちきが台湾愛書会に興味をもつのは図書館史的に重要人物がかかわっておるからぢゃ。澤田兼吉は、「学史」的には超重要で、ほぼわちきが再発見したといってもよいが(ほぼ、というのは古野健雄が軽く触れているから)、「業界史」「実務史」「行政史」的には超有名なのが山中きこりさん。
ちなみに松浦(2007)は総督府図書館の蔵書が戦災で焼失したとあるが、不正確。建物は燃えたけど、大半の蔵書は山中樵らが必死になってやった疎開で助かった。現に、同じ論文(松浦:2007)に総督府図書館の蔵書印つき資料がでてくるのはそのせいと思われる。

裏川大無(?-?)について

『愛書』(1),(2)に「明治三十年代の台湾雑誌覚え書」を書いた裏川大無の素性がよくわからぬ。
『愛書』の編集を西川満と一緒にやっていたことがあとがきからわかるのだが。
畏友オタどんの調べによって台北帝国大学司書をしていたことは明らかなんだけど、これ本名かしら。大無は雅号として、裏川という苗字もあやしい。
「島の生活が五年続いた」とあるから、渡台は昭和3年ごろのことか。そうすると1900年代の生まれ?
「一幕見の思ひ出から、ともすれば歌舞伎への執着に悩まされ勝ちな私に、もう一つ諦められぬ大きな失望がある。古本漁りの出来ぬ侘びしさである」とあるから、歌舞伎が見れて古本屋が多くある場所、どうやら東京・大阪あたりにいたらしいことも推測されるが。
昭和初年当時、台北帝大には司書官1名、司書5名ほどが配属されていたらしい。なんとか名簿をみつけねば。

台湾愛書会の特徴

これは内地の愛書団体と比較すべきなんだろうけれど、あえて言うと、意外と「理系」の人たちが多いような気がする。大学、図書館、文学者、ジャーナリストがごっちゃごちゃにいたところが、なんともまぁオモシロなんだよなぁ(*゜-゜) 文学者、書誌学者、愛書家、図書館員が、一つの言葉のもとに集えたシアワセな時代だったのだなぁと。
その一つのことば「愛書趣味」の語誌についてチト調べてみようかすら。ってか、おそらくbibliophileの訳語なんだろうけれど、ここではかなり広い意味で使われているような気がする。

文献

沖田信悦『植民地時代の古本屋たち』(寿郎社2007)
武田〔虎之助〕「台湾愛書会成立小誌」『愛書』(1) p.206-207 (1933. )
サトウタツヤ「戦前期、戦時体制期と日本の心理学」『立命館人間科学研究』(4)(2002.11) ネットにあり。
松浦 章「書見台 國立中央図書館臺灣分館の日本関係資料」『関西大学図書館フォーラム』(12) [2007] ネットにあり