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古本オモシロガリズム

「削除処分」の初めは大正9年3月だと、読売記者が言ふ

「削除処分」の初めは、『改造』1920年3月号だと、読売記者が言ふてをる
こんな記事を見た。

発売禁止の新例開かる/「改造」三月号/一部切取で御免となる
 発売禁止の雑誌押収方法に就て昨年十月著作家組合の幹事が内務省の赤木図書課長と懇談を重ね一新案を建議したことは既報の如くであるが此処に半歳ならずして其の新例を「改造」三月号所載昇曙夢(のぼり・しょむ)氏の論文「クロポトキンの社会理想説」で開くに至ったのは偶然とは言へ喜ばしい事である〔。〕昇氏は陸軍教授の職に在るので、其方面から最初同氏に注意があり続いて赤木図書課長も昇陸軍教授と会見して筆者の同意を得て雑誌発行者へその論文中の危険と認めらるゝ所を四頁だけ切取る可く命ずるに至ったのであるが「改造」社では去る廿七日夜此命に接すると同時にしない雑誌店を歴訪して一部一部に就いて切取りを断行すると共に各地方雑誌店へも電報を以て其旨を通じる等百方手を尽して発売禁止の厄を未然に防ぐ事が出来た。
『読売新聞』1920.2.29朝刊、p.5

これが「削除処分」といはれるやつですな。読売記者は、「偶然」(内務省に対抗しうる)陸軍教授の論文が安寧禁止にひっかかたことで、内務省が発禁にせず、流通段階で削除したら発行してもいいよという「一部切取で御免=削除して発行可」という、それまでになかった「新例」が開かれたことを喜んでいる。
削除処分されたのはこの記事。

記事中にあるように、もちろんこれには次の大正8年著作家組合による申し入れや、

発売禁止等で当局と懇談/著作家組合の評議員
 廿五日午後六時から丸の内中央亭で著作家組合臨時評議員会を開き、著作権法及び出版法特に発売禁止に関する取扱上の事に関して当局者と懇談をしたいと言ふ所から、赤木内務省図書課長を招待し三時間に亘り諸種の点に就いて懇談を遂げ、有益な諒解を得て、同十一時半散会〔。〕出席者は有島武郎馬場孤蝶堺利彦長谷川如是閑の諸氏他数氏であった〔。〕
『読売新聞』1919.11.26朝刊、p.7

さらにその直前の、図書課による問題記事の明示化といった前史があるのであるのであーる。

発売禁止の新例/其の雑誌の何んという文章が悪いか明示する
 大杉栄氏の雑誌『労働運動』の第二号は「勤業と怠業」といふ一文で発売禁止になり改訂発行したがこの禁止に於て内務省は◇発売禁止に一新例を開いた。(略)
『読売新聞』1919.11.17朝刊、p.7

同時期の朝日新聞にくらべ、読売のほうが発禁がらみの記事はおおいし、記者が「新例」てふコトバをつかふやうに、やはり文芸につよかった読売新聞だけのことはあるかと。