書物蔵

古本オモシロガリズム

昭和17年6月南京で大蔵公望は何を見たのか

センセのご教授により、次の文献にあたることができた。

  • 金丸裕一「中支建設資料整備委員会とその周辺:「支那事変」期日本の対中国調査活動をめぐる習作」『立命館経済学』49(5)(2000)p.93-127

これって、「あれま,山崎元氏がたたかれてる」(http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20050702/p2)で紹介した、金丸裕一「「南京図書大略奪」のまぼろし」『諸君』37(8) (2005.7)p.162-175 の元ネタになった論文らしいんだけど、この文献に、昭和17年6月に大蔵公望が見た図書館・博物館がなんであるかを示唆する記述があったo(゚ー゚*o)(ノ*゚ー゚)ノ

福崎が見せた図書館・博物館とは

「中支建設資料整備委員会」のもと、南京陥落後に拾い集められた80万冊の図書は、同「整備事務所」の図書整理部によって整理されていたんだけれども、昭和16年に至り、南京国民政府(汪政権)行政院「文物保管委員会」に返還されることになった。
で、保管委員会のことが昭和17年9月の『図書館雑誌』にちゃんと載っていて、そこには、

貴国側〔=日本の〕派遣員二十一氏及中国側職員数十名一心協力ノ下ニ目下業務遂行中

とある。ん? 日本の職員が21名とな。
と、あわてて名簿の「整備事務所」図書整理部の人数を数えると22名。
こりゃあ、図書整理部の人員がほぼそのまま文物保管委員会で図書整理を継続していたとみるべきだね。
とすれば。

大蔵公望が、昭和17年6月に南京で、福崎の紹介で内覧するを得た図書館というのは、まさしく国民政府の文物保管委員会の図書館・博物館だった

とゆーことになるね。

七月一日ヲ以テ之ヲ図書館トシテ公開致スコトト相成候ニ就テハ何卒御利用被下度尤モ貴国側ヨリハ従来毎月二百余名ニ及ブ多数ノ閲覧者

というから、開館前から結構日本人が訪れてたみたい。
でも、その次を読んでわちきはのけぞったのだ!