書物蔵

古本オモシロガリズム

国会図書舘にある戦前雑誌は、たったの3割!?(×o×)

満読のパンフを買い逃して以来、戦前の雑誌を調べることが多いのだが。
なんと、われらが帝國圖書館が、

雑誌の収集率が3割程度だった

ということをわちきははじめて知った(×o×)
田中久徳「旧帝国図書館の和雑誌収集をめぐって」『参考書誌研究』(36)(1989.8) p1〜21
いやぁ、こんなに低いとは思ってまへんでした(・∀・`;)
著者は残っている雑誌と、『雑誌年鑑昭和14年版)』に掲載された「雑誌目録」(昭和13年12月末現在)とを照らし合わせてる。
雑誌年鑑』に載っているタイトル数は約2600点。これは、同窓会誌とかを判断して除いた数。
同時期のもので国会図書舘が持っていた和雑誌は約770点。すると所蔵率は約3割ということになるのだそうな。
しかも、これは分母を流通雑誌2600点にした場合での話であって、検閲対象の全部は当時、約2万点あったので、これを分母にすると(つまり非流通系を含めると)6パーセントぐらいまで収集率は下がるという。
分野ごとの違いも分析されていて

学術雑誌が充実を見ているのとはうらはらに、通俗物、特に文芸雑誌や児童物の軽視が顕著

であるという。

なんでこんなんなっちゃってんのかっつーと。

2つの理由を著者は推測している。
明治30年ごろに内務省帝国図書館がトラブった時に、雑誌が「交付」され(=もらえ)なくなってしまったんだそうな。
だからそのあと、帝国図書館は、雑誌は寄贈や購入で集めるしかなかったのではないかと。著者は、なんとまあおどろいたことに、受入印を一つ一つ調べて交付か寄贈・購入かを調べたらしい。
だいたい、書庫の狭隘化で単行本でさえごっそり捨てるしかなかった帝国図書館(トラブルはこれが原因)にとって、新聞や雑誌は「集め(て保存す)る」対象ではなかったのだろうとも推測しとる。
その推測、賛成なり。
いまでこそ、帝国図書館は納本図書館だったなどと、後知恵的な新解釈が通用されとるけど、現実には大きなレファレンス図書館を指向していたといえる。
これは事実関係というより、解釈の問題になっちまうけど

時代区分 書籍館」時代 帝国図書館」時代 「国立国会図書舘」時代
理念系 公共図書館のモデル レファレンス図書館 国立中央図書館

というのが妥当では。

わちきがなぜ気づかなかったのか

まずもって、わちきの興味がある書誌部門の収集率がわりあいといいほうである、ということがある。
書誌や図書館関係誌については、たしかにイチバン揃ってるように見えたということ。
あと、これは、この文献が載った媒体の問題で。
こーいった研究論文は、たしか『図書館研究シリーズ』に載せるのではなかったか。
研究的なものは、稲村テッチャンとかのものがごく初期の号に載っただけだと思っていたよ。
そうそう、テッちゃんといえば、この論文(の注)に、これまたちっちゃな活字でオモシロ話の証言者として登場している。

柴田宵曲帝国図書館のヘビーユーザーだった?

稲村徹元氏が、柴田, 宵曲 (1897-1966) ‖シバタ,ショウキョクからきいたハナシを、著者が注に記している。
宵曲さんは閲覧目録にない雑誌も見せてもらえたという。未製本のものが新聞にくるまれて提供されたと。
しばらくまえに、
帝国図書館雑誌新聞目録. 昭和10年末現在. -- 帝国図書館, 1937
をネットで拾ったんだけど、ぱらぱらとみて、「こんなに少ないはずない」「これら以外のは、どうやって閲覧してたのだろうか?」と疑問だったのだけど、ここに答えが書いてあったのね。

注がオモシロ

さらに、わちき的にオモシロと思ったのは、注の部分にちっちゃく書いてある筆者の、論文執筆の動機ンとこ。

きっかけは、ある児童文学者から、自分の習作時代の作品を掲載した大正年間の児童雑誌の所蔵を尋ねられたことに始まる。この老作家は、自らも昭和初期から童謡雑誌を主宰していた経験があり、内務省へ納本した雑誌は帝国図書館から国立国会図書舘に引き継がれているものとの確信を持っていた。国立国会図書館には、戦前の児童雑誌が極端に乏しく、これを契機として雑誌の納本制度が機能していなかったのではないかという疑いをもつようになった。児童文学に限らず、日本の文芸研究にとって同人誌の占める比重は大きく、雑誌の納本体制が不十分であったことが今日重大な障害となりつつある。

さらに分析すると、著者がこの論文を書いたのは1980年代も末なわけで。
それまでまともな論考が雑誌に関してなかったということ自体が、かなり問題なのではと。さらにさらに、このあと雑誌の保存のハナシってのは誰かやっとるのか?
これではますます古書展がよひが罷められぬといふもの。
端本もなるべく拾うようにしますかの(^-^*)