最近、ツイッターの学術関係でちと話題のやう。
https://twitter.com/sat_osawa/status/491047899975802880
あたかもよし、けふ午後、Mさんから架電でこのリストのリストにつき相当のつっこみ(σ^〜^) いろいろ弁解す(^-^;) ん?(・ω・。) なして(。´・ω・)?
まあ、このlibrary pathfinderが置いてある国会さんの「リサーチ・ナビ」は、ある種の乞食嚢で、役立つもんもガラクタもいっしょにぐっちゃぐちゃに入ってをるといふ、なかなかにラビリンス。わちきが見るところ、pathfinderと、人文リンク集、国会さん独自開発のDBのみが役に立ち、それらをどのやうにノイズを排除しながら――残念ながらレファ協の個々のエントリはこの場ではノイズとならん――釣り出してくるかっちゅーのが館界レベルでの課題とならむ(゜〜゜ )
それはともかく。。。
架電中のオモシロな話。わちきも知らんかったが、実は和田ゼミ生が似たやうなものを先行してつくっていたとぞ(。・_・。)ノ
雑誌一覧表作成方法 / 青野有香里
- 雑誌一覧表作成方法 / 青野有香里
http://www.f.waseda.jp/a-wada/ichiran.html
ぜんぜん知らんかった(^-^;)
なにごとにも先達はあらまほしきこと。
このHPでは一等最初に、
が載ってをる。この事典、ちゅーか、記事索引は、そも金沢文圃閣の一等最初の企画らしく、そのかみ、文圃閣主人が早大でふらふらしとった折にW大図のレファレンス・カウンターにて深井人詩司書らが使用せる日本古書通信のコピーの束を見て発案したものなのださうな(σ^〜^)
さうしてみると、近代日本雑誌研究の重要なツールが開発されたのは――書きはじめられたのは1970年代として――1999年の9の月だったといふことになる(゚∀゚ )アヒャ
青野氏は――この方、他に何を書いているのかしらん――上記エントリでさかんに、雑誌と新聞の分離をいふけれど――そしてそれは雑誌一覧をゲットすてふ目的にはかなうが――拙ブログの読者には明らかなやうに、雑誌と新聞は明治中ごろから分離しはじめたもんなんで、そこいらへんのことを念頭におかねば、実はあやうい作業とならん。
新聞と雑誌を区分する際に注意すべきこと
たとへばさ。
芸能界や文学界、あるいは市井のゴシップ記事って、現在は「シューカンシ」てふ雑誌の一種がになっとるが、この「シューカンシ」なるジャンルが成立するのは戦後昭和30年前後のことで、戦前には「シューカンシ」てふコトバ・概念はほぼなかった。もちろん、週刊のっ雑誌、「週刊雑誌」はあったが、そりゃあ本来月刊であるのがデフォな雑誌の一種という扱い。いまの「シューカンシ」の役割はないといってよいだらう。
では、戦前ワールドには、ゴシップ記事はなかったのか?
んなわきゃーない、とすれば、それはある種の新聞がになってたわけで。最低限上品な現在の新聞とはちがう新聞があったと見るべきで。
だいたい、「三大紙」なる概念が成立したのも、基本、戦後わるーどのことで、戦前は、四大紙とか東京五大紙とかいう考え方(および実態)だったわけで。
ここいらへんの戦前・戦後の常識のズレが、共生閣・藤岡淳吉の大焚書(1933)をなかったことに――1970年代から――しちまったといふのは、
- 書物蔵「真相はかうだ! 藤岡淳吉の日本焚書は片隅で/『印度資源論』のホンタウの訳者は『文献継承』(23) p.8-16(2013.10)
で実証したことぢゃった(σ^〜^)
しかしかやうなHPをよく知っとるのー(・o・;)