書物蔵

古本オモシロガリズム

古本は東京に限る???

内堀弘古書店主)氏が、『資生堂という文化装置』を読んだとて、こんなことを図書新聞(2011.6.4)に書いている。

 今でも、古書展に行けば、その頃(昭和初期)の本や雑誌が並んでいる。もちろん、古い資生堂の宣伝誌や資料がたやすく見つかることはない。しかし、鉄道の雑誌でも足袋屋の小冊子でも、どうしてこんなにステキなデザインなのかと驚くものがある。新しい風が吹き抜けた跡はいろいろなところに残っている。
 復刻版やコピー、うっかりするとネットで集めた資料にあたっているだけでは、こうした時代の風に直に触れることはないのだ。

うむ。
酸性紙で崩落してしまうような新聞紙、雑誌ならばともかく、できれば現物を見るにしくはなしとわちきも思う。もちろん、チャカチャカっと卒論をしあげるだけなら、コピーと電子本でいーんだけど。
図版ものの場合、複写で情報量がかわってしまうということがあるし、なによりも、本って意外と3次元の存在なんよ、って森さんもゆーとった(σ・∀・)σ 立体芸術。もちろん、格納されてるテキスト含めて。だから、たとえばテキストの受容史などを考える際に、容れ物(三次元)を感覚的につかんでおかないと、トンデモないまちがいをすることになる。
やはりどーしても「古本は東京に限る」側面があるなぁ。関西、大阪や京都だとなかなか…。

研究資料としての雑本(ざっぽん)

たとえば日本図書館史にしても、史学的再検証に耐えるものはほんのひとにぎりで、単館の記念史、個人の顕彰記、図書館運動のための「お話」、などで現在のイメージが形成されていて、それは部分的に史学的論文が書かれると、訂正されることはあるけど(例.悪の帝国図書館長とか(σ^〜^)http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20060507/p1 )、それは、その部分だけで、やっぱり全体は一昔(ほんとうはもう40年も)まへに創られたイメージだったりもする。この話は、島根県立図書館史のオモシロい本(の書評)を紹介した時にはなしたっけか。
こういった、(言葉は悪いが)2流や3流の出版物も含めて、人間の認識を構成しとる。ここではそういった2流3流の本を、主題のいかんにかかわらず*1「雑本」と呼んでおきたい。
(かきかけ

*1:単に、要約主題が数個に絞れない多主題の本、つまりNDCが049のものは、分類表の名辞にしたがって「雑著」としておく。