書物蔵

古本オモシロガリズム

牧 治三郎文庫と、変体活字献納運動

治三郎文庫

このまへ来たS川堂の古書目録に、実際に治三郎文庫の業界紙がでていて、ちと興味。
つぎの記事の人物紹介によれば。

  • 「『京橋の印刷史』の編・著者牧治三郎さん(スポットライト)」『印刷界』(228) p.71(1972-11

印刷関係の歴史的な史料が必要となると、すぐにひっぱりだされるのがこの人。大正5年、16歳で〜東京印刷同業組合に、書記として採用された。〜印刷倶楽部、印刷協会、印刷同志会、印刷連盟会、東京印刷協和会、大日本印刷業組合連合会の嘱託書記となり、東京活字鋳造協会創設に参加〜

ということ。

明治33年生。昭和13年退職以降は、印刷用木具、罫、輪郭の製造に従事している。

ともある。
んで、この人、たいへんな書物コレクターだったのだ。

キリシタン版あたりから瓦版、明治の新聞など、日本の印刷のあけぼのからの貴重な資料の蔵書が3万冊もあって、収集家の垂涎の的。書記時代のノートだけでも200冊近い。

ほへー( ・ o ・ ;)である。

――貴重な蔵書は今後どうなさるつもりですか?
牧 よくきかれますけど、印刷図書館には絶対に譲りません。〜図書館も寄付を待っているだけでなしに、古いものをもっと買えばいいんですよ。私だって苦労して買っているのですから。

公的な機関につとめている検収担当は、「苦労して買」うことをしないからね。きのふも某国立図書館分館の児童サービス担当がかなり阿呆なことをして古本屋にひそかにあきれられたという噂を聞いた。
それはともかく牧さんは、業界歴が超ながい。ながすぎて戦時中の「変体活字献納運動」に関わったのではないかと疑われとる。

また、牧治三郎の1938年(昭和13)から、敗戦の1945年までのあいだの経歴が「印刷材料商を自営」とだけなっており、その間の行蔵コウゾウはあきらかにされていない。印刷同業組合の書記の職を辞して「印刷材料商を自営」した1938年には、牧はまだ38歳程度の年齢であった。向上心と自意識がきわめてつよかったこのひとが、活版木工の取次程度の閑職に甘んじていたとはおもえなかった。
この「変体活字廃棄運動」の件になると、ふつう饒舌な牧は、俄然寡黙になり、筆者がどこまでその実態に迫っているのかを逆に探ることのほうが多かった。しかしついに、牧はそれを詳細にかたることがなかった。
花筏(はないかだ)http://www.robundo.com/robundo/column/?p=1369

いやさその答えも半分昭和47年の記事に書かれてをって、戦犯追及などされるかもと資料を廃棄しちったんだそーな。

変体活字廃棄運動とは

「変体活字返上運動」とも、「変体活字献納運動」ともいうらしい。「活字の使用範囲を明朝、ゴシック、アンチックに制限、それ以外の活字は地金にして兵器生産のため供出」するという運動。

  • 片塩二朗「文字の風景-9-日本書体史の汚点--「変体活字廃棄運動」の記録」『印刷雑誌』78(3) p.37〜44(1995-03)

によれば、

  • 矢作勝美 著. 明朝活字 : その歴史と現状. 平凡社, 1976. 197p

についている年表が資料性が高く、戦中期の印刷業界について次のようにあるという。

S16・10 日本印刷文化協会(印刷業界の統制機関)設立。
S16・7 福岡地方活版印刷工業組合、軍需物資の消耗抑制策に応じ、活字の使用範囲を明朝、ゴシック、正楷書の3書体に制限することを決議。
S17・6 日本出版文化協会「一般書籍雑誌組版及活字制限ニ関スル実施要項」を作成。日本印刷文化協会もこれを支持し、活字の使用範囲を明朝、ゴシック、アンチックに制限、それ以外の活字は地金にして兵器生産のため供出。

戦時中、各業界すべてに統制団体がつくられたわけなんだが、印刷業では「印協」だったわけ。

1941/10/27印刷業界の全国的統制機関として日本印刷文化協会(略称:印協),いよいよ創立(理事長:筯田義一).この協会の設立により,日本出版文化協会・日本出版配給株式会社・洋紙共販株式会社と一連の出版新体制が実現.→翌年11月11日.
(出版百年史年表)

出版新体制ぢゃ( ・`ω・´)b
さきのブロガーいはく、

ただいえることは、牧はさしたる理由もなく、印刷同業組合の書記役から身をひいたものの、単なる「印刷材料商」としてではなく、あきらかに「緊張の時局下」の印刷界の枢要な黒子として、水面下で活動した。

という。
たしかに、「牧治三郎氏辞任」『印刷雑誌』21(8)(1938-08)という記事から戦後までかいもく不明というのも不思議(σ・∀・)σ