三号新聞
三号雑誌といふ言葉も、近頃とんと耳にせぬやうであるが、その語が滅びたといふわけではあるまい。明治十一年三月二十九日の読売新聞にう、三号新聞の名の見えてゐるのには、これにも驚いた。雑誌だけではなくて、三号新聞もあったのである。
発行
本の奥付に付ける「発行」といふ言葉は、いつ頃から行はれ初めたのか、これまで考へても見なかったが、太祇、嘯山、随古の三人の共編した平安二十歌仙の奥に、「明和六己丑五月発行」とあるのなどは、古い方といってよいだらうか。
ツンドク
東京新誌といふ和紙袋綴の小雑誌がある。私の見たのは全部でないかも知れないが、明治九年の創刊号から、十五年四月まで、二百九十五号に及んで居り、服部憮松が社長に納まって居り、後には、三木愛花なども書いてゐる。内容はたゞ低劣の一語に尽きるもので、取るに足らないといえばそれまでであるが、それでも私はそれを見て行って、ツンドク家またツンドク先生といふ語が、明治十二年に既に行はれてゐたことを知ったのは、ありがたかった。