書物蔵

古本オモシロガリズム

明治初期における発禁本の差し押さえ実態について

 が、山城屋稲田政吉は其の頃の商人としては四角な難かしい字も読み、後に府会議員となって府政に与かった程の口利きで、黙って泣寝入りする男では無かった。其の頃地獄の門を潜るより恐ろしがられた役所へ大胆に出頭して、お上の厳命となら禁止は拠ろないが、刷上がって製本までしたものを、(其の頃は禁止されても押えられなかったと見え)此の儘紙屑として了っては商売は立行きませぬ。何とか特別の御穿議をと哀願した。其の頃は今より出版に理解も同情もあったと見え、評議の末に増刷は罷成らぬが残本は寛大(おおめ)に見ると許された。稲田は百拝千拝、恩を謝して帰ると直ぐ、『柳橋新誌』禁止に就き残本限り絶版と、太筆に認めた立看板を店頭に立てた。さア売れるとも、売れるとも、何遍追摺しても製本が間に合わぬほど売れ、其の頃としては今日の円本の数万部にも匹敵する何千冊が瞬く間に売切れて了った。あの頃は随分ノンキでしたと、後に稲田が太っ腹を抱えての憶出の笑い咄であった。「銀座繁盛記」『読書放浪』(p.108)

これは明治9年に第3編が禁止になった際に、第1、2編を刷って売ったことを、後になって改装していると解釈すべきだろう。