書物蔵

古本オモシロガリズム

「書生都市」という概念装置

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森洋介さんが先々週だったかな、提出した概念。
どうしてこんな話になったかというと、明治初めの読書装置、書籍館明治20年ごろ絶滅した話をしていて。
森さんは前から、それって蔵書構成の話に還元するよりも、それを一歩進めて、マーケッティング論、つまり顧客層の開拓ができたか否かぢゃないか、っちゅーことを言っていた。
つまり、「公共図書館の冒険」(みすず書房、2018)がいうような、和本漢籍しかなかったから、とも言えるけれど、入れ替わり立ち替わりやってくるお客が来なかったから、と考えたほうが本当じゃないか、ということ。
なーるほどと思ったが、そこでこの、入れ替わり立ち替わり、ということに注目すると。
実は学校の客というのは、かならず数年で全員が入れ替わる。
20館前後あった全滅した書籍館たちの中に、生き延びた書籍館が2つある。ひとつはいま国会図書館が先祖だ!と言っているーーわちきは、これ、後付けの相当怪しい館史だと思う。あそこのジャーゴンに「唯一の国立図書館」というのがあるが、あれは2つあった国立図書館の後ろめたさの無意識的現れだと思うとるーー文部省書籍館と、あと宮城書籍館
この宮城書籍館が生き延びたのは、どうも、学校附属になったかららしいのだ。
書籍館の全滅を受けて、公共図書館の役割を果たしていたのは、いろは貸本店などの「新式貸本屋」なのだが、この新式貸本屋が営業的に成り立ったのは、もちろん洋書や新刊図書を蔵書構成に入れたからでもあったが、それを読みに来る顧客層の開拓に成功したからで。
で。
その顧客層は誰かといえば、「書生」。
タイクーンの都、Yedo cityは、東の京都とて、Tokei(東けい)と改称したけれど、この都市に何万人もいたのは、出世すべぇとて田舎から出てきた書生さんたちだったのだ。
書生さんはそも、学校に属しおらず、明治政府は図書館に金をかけることをやめちゃったけれど、学校にはそれなりに金をかけ、帝大附属、高等学校附属、高等商業などなど、一緒に整備されはじめた学校附属図書館を使えなかったから。
資格試験、学問、趣味などで、そこそこ真面目な本を読みたい、と思った書生さんたちはーー「貧書生」と今でも自嘲表現で残っているように書生さんには金がないーー古本屋を使うか、あるいは新式貸本屋を使うしかなかったからね。
明治初年のトウケイ・シティーは「書生都市」だったのじゃ。