書物蔵

古本オモシロガリズム

大日本教育会附属書籍館の3人の職員――うち1人は本好きの畸人ヾ(*´∀`*)ノ゛キャッキャ


1890-07の大日本教育会雑誌. (號外)にあるのぢゃが、明治23年6月末の大日本教育会附属書籍館の職員は次の通り。
主幹(館長):日下部, 三之介, 1856-1925 || クサカベ, サンノスケ
副主幹:小永井解太郎
書記:塩田, 力蔵, 1864-1946 || シオダ, リキゾウ




主幹、日下部三之介

日下部のはうは、図書館史に出てくるが、塩田は出てこないっぽい。

『日本図書館学史序說』
124 ページ
明治の初期から中期に及ぶまで,教育の一部分を担 5 にすぎなかった書籍館及び
図書館が国民一股へのつながりをもつ途が漸く ... 同会主幹兼書籍館主日下部三之介
の報告によれば,書籍館設立の目的は教育及び学術に関する通俗の図書雑誌報告書を
収集 ...

書記、塩田力蔵

「畵室と書齋 鹽田力藏」『研精美術』(7月號)(108)p45(1916-07)によれば、「先生は五十幾歳の今日尚独身であられるのです」とある。
館林唐一郎「非運な陶磁学者--塩田力蔵先生とその遺稿」『日本美術工芸』(175)33〜37(1953-05)は事実上の伝記で、明治18年に上京、学術誌の編集者になるとあり、明治32年岡倉天心の推挙で東京芸術学校講師になったとある。昭和19年に「愛蔵書の大部分を東京日比谷の図書館へ売り」ともあり、疎開先で栄養失調となって死んだとある。
桑原双蛙「塩田力蔵君と私」『日本美術工芸』(179)28〜31 ] (1953-09)では、長い間文通の友だった桑原によって手許にたまった書簡から塩田との交友が記述されている。明治32年頃の日本美術院の機関誌『日本美術』編集者名義人は六角紫水だったが、事実上、塩田が編集していたとある。もともと「本郷吉祥寺町廿番地」に塩田はいて、大正時代1度だけ訪ねたことがあるそうな。
「玄関より奥まで、左右は書籍が積み重ねありて、書籍のトンネルの様な感じを私に与えたことを記憶しています」
姪の(塩田?)しまが一緒に住んでいて、同人が最期もみとったとしまからの書簡転載がある。
なにやらわちきに似ている???
このブログによると、石井研堂ともオトモダチだったらしい(´・ω・)ノ

1893明治26年、力蔵は同郷で仲の良い*石井研堂の雑誌『小国民』に「地熱防護会議」「化学総選挙」など奇抜な着想の科学読み物を寄稿する。
 ペンネームは鹵男子(ろだんし)、鹹湖上人(かんこしょうにん)。由来は「鹵」は塩の地、「鹹湖」は塩水湖の意味で、自分の名前・塩田をもじっている。
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/09/post-8ed2.html

桑原さんの遠隔トモダチでレファ本開発者ともオトモダチ、もぢりの筆名を使ふ畸人とはわちきにますます似ている…(^-^;)

副主幹、小永井解太郎

この人は教員になったらしい。韓国のDBを引くと、1912から1922年まで朝鮮で教員をやっている。『国文学』などに書いたものをみると佐倉出身? 明治11年ごろ初代韮山中学校長だったとも。官報では日本中いろんなところに赴任しているなぁ。