書物蔵

古本オモシロガリズム

発禁するのぢゃー

いま、「水沢不二夫のブログ 発見の手帳 PART Ⅲ」を見たらΣ(・ω・ノ)ノ!
なんとΣ(゚◇゚;) ハッキンの示達書命令書ぢゃないすかっ!(*ω*;)´´

スゲーなぁ…ごがいなもんが、残ってゐたとはとは…(・o・;)
上記ブログによれば、「徳富蘇峰記念館」にあったのを数年まへに水沢さんが見つけたのが、やうやくHPで見られるやうになったとのこと(。・_・。)ノ

おそらく現存最古の*1発禁処分の命令書。
1921(T10)年6月16日『国民新聞
水沢不二夫のブログ 発見の手帳 PART Ⅲ」http://blogs.yahoo.co.jp/kafuka1964/26252825.html

まあ、この当時、つまり対象期はまだ、「発禁:はツきん*2」なる略語は通用されてをらんで、「発売頒布禁止」といはれとったに相違あるまいが…(はツきん、は昭和初期にできた略語だと、尾佐竹猛はチャーナリズム講座にていふ)
ほかにも蘇峰記念館のHPにはオモシロゲなものがUPされとる(*´ω`*)

しかしこの示達書命令書、改めて見るに、いろいろオモシロげなことが判る。
まづ、ガリ版で刷られたものらしいこと。これは常にこのフォーマットを数百部は警視庁で用意しておいて、命令が出るたびに使ったといふことだねぇ。さらにまた、「大正 年」とあるのは、数年に1回刷っていたといふことにならう。記事名があげられとるのは、もすかすて、どれがイケない記事なのか、明示してゐたといふことかすら??? こりは大発見ぢゃo(^o^o)

おそらく「テク」で

エイベル先生んとこから借用した発禁のフローチャートがある。昭和前期の出版法制史を研究するには、まづ一等最初にこの図を見ることになってをるのぢゃと、もう何年もまへに森さんにおそはったことぢゃった。http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20120303/p2

『文芸市場』昭和2年8月「暑苦〔ショック〕号」の表1、表4

神秘をあばくという事は、吾れ人ともに変に力こぶの入るものであります。
そこで私達もご他聞にもれず、大骨折って一つの神秘を諸君の眼前へ引きだして見せましょう。
雑誌が禁止を食らうには、どの位の手数と、手間と、時間と、経費とがかかるかご存知ですか?
電報料だけだって大低なものではありません。とにかく雑誌が出来ると まず内務省2冊、警視庁1冊、区地方裁判所2冊、東京逓信局2冊、差出局2冊、所轄署高等出版係1冊、都合10冊を納本します。
それからの経路がいわゆる神秘で、普通の人には解らぬ事実であります。
とっくりと下図によって如何にお役所に仕事が綿秘〔密?〕で面倒臭いかごらん下さい。
(引用者において現代表記に書き直した。以下略)

この図の、本社へ「所轄署(本社の)」から線がひかれとって、線のわきに(テク)とある。

テクとは、「〔名〕徒歩で行くこと。てくること。てくてく歩き。」(日国)なれば(おそらく「トラック」と脚韻をふんでる)、上記、示達書は所轄署員が出版社・新聞社にてくてくと歩いて持ってきた可能性大なりね(o・v・o)b
んで、所轄は残部を封印かなんかして、実際にその残部を差押えにくるのは、警視庁差し回しのトラック――昭和8年、共生閣の焚書の時にも来てたね――ならん(σ^〜^) しかし、このフローチャート、ほんたうに細かくできとるのー(σ・∀・)σ
ちなみに警視庁に「橘シネマの守」って人がいるでしょ(σ・∀・)

この人ぢゃヾ(*´∀`*)ノ゛キャッキャ

この人は善意の人だよ(彼の主観)。早大出の新聞記者あがりだから、メディアと権力の仲介人のつもりだったらしいと、『出版文化人物事典』にある。

立花高四郎(たちばな・こうしろう)本名・橘高広(たかひろ)とは(20150213追記)

1883?〜1938.1.8 早大卒? 映画評論家にして随筆家。元・警視庁検閲係長。
新聞記者だったが1914年、米国の従弟から映画雑誌を送られて映画研究を始めたくなり、それなら検閲してるところだとて警視庁入り。1917年8月の子ども禁止映画の設定に活躍。
神楽坂署署長を最後に1933年退官し、文筆生活に入る。同年、映画関係の和洋図書600冊を慶応義塾図書館へ譲渡(いまでも残っているとか)。1937年10月、満洲映画協会嘱託として京都に出張中、脳卒中で倒れ翌年死去した。著作に『これ以上は禁止』『現代映画の話』『民衆娯楽の実際研究』などがある。
資料:『出版年鑑(昭和14年版)』p.93 『有賀基金橘文庫総目録』(1933)※肖像は橘でなく有賀長毅。關野嘉雄「橘高廣先生を悼む」『映画教育』(2月號)(120)1938-02

示達書でなく「禁止命令書」であったぞよ(20150210追記)

親切なる橘シネマ守(しねまのかみ)の言によれば、上記の紙っきれは、「示達書」ではなく、「禁止命令書」であった。

それだから同一新聞紙で同一号数であっても禁止命令書に記事の指定がある場合には、指定記事のない新聞紙は差押執行を免れることになるのである。
『これ以上は禁止』立花高四郎 著.先進社,昭和7.p.7

これによれば「禁止命令書」といふ。また、イケナイ記事の指定がある場合と、ない場合がありそうである。
上記のホンモノの命令書をば見れば、みなみな様にも直観的に判るように、記事の指定欄が空欄の場合は、とにかくモー、その号数であれば、トラックに積み込まれてしまふのに対して、上記の命令書のやうに記事の指定があった場合には、その記事が載ってないけど同じ号数のものは(つまり、異版)差押えをまぬがれるといふワケ(´・ω・)ノ
立花高四郎が、橘シネマ守こと橘高広であることは、こりゃ映画通や古書通には知られたこと。
橘シネマ守は早大を出て新聞記者をやっとったんだけど、在米の親戚から映画雑誌を送られて映画研究をしたくなっちゃふ。で、どーしたか? 映画の検閲官になっちゃふ。さすが(゚∀゚ )アヒャ ○○を研究したけれバ、○○産業に就職するのもよいけれど、○○取締官になるのがイチバンぢゃ。わちきも図書研究のために図書官になるのぢゃあ⌒Y⌒Y⌒ ヾ( ´∀`)ノ ♪♪♪ ん?(・ω・。)

わちきがエロ本研究に注目する由縁

わちきが、エロ本研究史に興味があるのは、べつに「エロ本」(この言葉は昭和初期からと『書物語辞典』昭和8年)の本来機能に興味があるんぢゃあ、なくて、さういった

「エクストリームな」本でないと、権力発動の対象とならないんで戦前の出版行政の枠組みを知る事例とならない

ということ。だから原理的には左翼本、右翼本、エログロ本ならなんでも可なのぢゃが、じつはエロ本は同時代や後代の熱心なファン(マニア)が付くので、これがまたイーのよ(σ・∀・)

近代書誌学の先駆形態として

西洋諸国でハ、べつに古典籍も近代書籍もわけへだてなく対象としてきた「書誌学」あるいは単に「書誌」なる知識分野があるのだが、なぜだか本朝においてだけ、それは古典(前近代)書誌学でしかなく、近代本の学はこれから造らねばならんのが現状。
これから造るにも材料が要るわけで、もちろん現物(当時の出版物の現存せるもの)も使ふ
んだけども、やはり、同時代やこれまでの言説も拾はねばならん。その際に!
愛書趣味家たちの言説が使へるといふワケ。
現に!`・ω・´)oシャキーン

発禁の全体像を現わす詳細なフローチャートがほちい…(´・ω・`)
→あの、エロ本出版の英雄、梅原北明の『文芸市場』昭和2年ショック号ぢゃ( ・`ω・´)b

と、わかったでせう(σ^〜^)σ
日本近代出版法制史をたどる捷径は、じつハ、梅原北明などのエロ本出版や、それをおっかけとった斎藤ヨズエなど愛書家連にありといへるのであーる。だからホントは近代書誌をやる連中は、いま古本屋でたたき売られとる、斎藤夜居 著『大正昭和艶本資料の探究』(芳賀書店, 1969)あたりから読み始めなければならんのであーる。さらに『発禁本』三部作は細かいところに瑕疵はあれど、必携の教科書なのであるんでアリマス(σ^〜^)

趣味から研究へ

極端本(きょくたんぼん;わちきの造語)の行方が、図書行政の枠をあぶりだすのに使えるといふのハ、じつはこの、民主日本国でも同様ニテ。
納本制度の不調具合を見るのに、寡占取次からのマジメな本なんか測ったって無意味。エロ本、マンガ本など価値的に低いと見なされるものを計るのが捷径なのであり、実践例もあったことぢゃった。

*1:あとから実はこれより6年まへのものが浅岡邦雄教授によりテ、千代田図書館講演会にて発表されたる由きけり。さても千代田の講演会ハ出版法制史研究に於いて最先端なるかな(*´∀`*) 感心せり(・o・;) 

*2:「はツばい・はんぷ・きんし」の略なので、「はツきん:hatsukin」。「はッきん:hattkin」という発音は戦後に広まったものか。2009年に日本評論社元社長・鈴木三男吉がさやうに発音したのを聞いて皆はッきんではなくはツきんと呼んでゐたのですねと確認し、然りとの回答を得た、とMさんに聞いた。なんでそんなことを聞くの、ちゅーカヲをされたさうである。「発禁」を「はツきん」と戦前期の人は読んでいたらしいことは浅岡先生が千代田図書館などで講演していたのをわちきも聞いたことがある。