小冊子という日本語は江戸期から、簡易な冊子という意味で使われていたが、ここでは、近代の「パンフレット」の訳語として扱うね(o^ー')b
江戸期の話
いま「日本大百科全書(ニッポニカ)」を見ると、
パンフレットの最初は1601年、当時イギリス最大の商業組合であった冒険貿易商会のつくった『商業論』といわれる。日本では1786年(天明6)に黄表紙の創始者恋川春町(はるまち)が書いた『三舛増鱗祖(みますますうろこのはじめ)』という宣伝のために顧客に配った景物(けいぶつ)本が最初である。[島守光雄]
とあり、なんと江戸期に「景品」として出た本をパンフレットの嚆矢にしとるけど、わちきとしては、日本近代に限定して考えたいのだ。
戦後のパンフ史
戦後のパンフレットについては、いまから5年まへ、
満洲大会の栞からエフェメラ論を展開す
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20060530/p2
として、国会図書館の有能な実務官僚がパンフレットの保存を合理的にサボった事例を紹介したっけか。戦後の国会図書館には帝国図書館の「乙部」制度のような知恵がなかったから、せっかく集まっていたパンフレットをコソーリと*1捨てたという話を稲村テッチャンらが昭和43年に明らかにしたという話。
でも、戦前のパンフレットについては、どーやって論ずべきか手がかりがなかったのであった。
「内報」同様、あまり言説化されない
もちろんパンフレットは明治大正期からあったようではあるが、あまり言説化されておらんかった。たとえばこれ。
- 現代商業美術全集. 第21 カタログ・パンフレツト表紙図案集 / アトリエ社. -- アルス, 昭和4
これは復刻もあるけれど(ゆまに書房2001)、図案の例も外国のものばっかり。詳細な参考文献表も全部洋書というのはおそれいった。論考もあるがカタログのことばかりでパンフレットへの言及はほどんどなく、日本のパンフについてはぜんぜん参考にならず。
昭和前期のパンフ
ところが折よく森さんよりのメールに手がかりとなる文献が紹介されていたので
- 今野保夫「現今に於けるパンフレツトの傾向」『圖書館研究(芸艸會)』12(2)(1936.3)
今野がいうには、パンフレット出版は五・一五事件(昭和7;1932)の頃から盛んになったという。それで、なんとパンフレット専門の出版社もあり(昭和9年1月段階で、森田書房 現実処 今日の問題社 農芸社)、それら出版社が協会をつくった(昭和10.1)とあると、教えてもらったが、森さんがいうにはさらなる情報が見つからないとか。
東京冊子出版協会とは
さっそく調べると、読売新聞に2段ヌキの連合広告が載っていたのを見付けた。
- 『[広告]新刊パンフレット/東京冊子出版協会」『読売新聞』(1935.8.28朝刊)
東京冊子出版協会の出版物は全国省線及び私鉄のホーム新聞スタンド・駅売店・街頭新聞スタンド・有名書店にて発売してゐます。品切れの節は直接各発行所へ御注文願ひます。
どうやら団体の名称は「東京冊子出版協会」のようである。今野の記事では結成当時4社で次の7社の広告が並んでいる。
普及社 東京須田町一ノ二四
今日の問題社 東京市芝区田村町四ノ十八
現実処書店 東京神田旭町一四ノ四
森田書房 東京麹町有楽町二ノ二
西城出版部 東京中野本町通り一ノ廿三
さんもん書房 東京杉並高円寺七ノ九〇一
教材社 東京市小石川区西丸町
今野(1936)は、現時点で10社が加盟しているとしているので、増えたのであろう。
「十銭本」のピークは昭和11年
実は内務省警保局の統計からいうと、まさに今野が執筆をした昭和11年がパンフレット出版のピークであった。昭和11年を概観する『出版年鑑』昭和12年版の記事によると(p.11)、雑誌が厚くなり、もてあまし気味になった結果、「そこで辻売、駅売に現はれたパンフレットが羽が生えて売行を見せることになった」という。「十銭本」というとも。さういへば、どっかで十銭本という言葉を目にしたなぁ。
「国策パンフレット」の出現
と、ではピーク以降、出版数が減少した理由はといへば、『出版年鑑』にははっきりとは書いてないが、時期といひ形態といひ主題といひ『週報』の出現によると考えてよいであらう。
なんてったって「国策パンフレット」(週報の新聞広告より)だもんね(o^ー')b
それに実際、期せずして堀内庸村(戦時は読書運動家)とか並木軍平(右翼司書)とかの著作は、実はこの時代のパンフレットなのであったからわかるように、中身は結構えーかげんなのがおおいし。
東京冊子出版協会はいつまであったのかすらん(゜〜゜ )
ってかそれがよくわからん。だいたい、出版年鑑にでてこないし、その記事ではっきりと、パンフレットは価値的に低いものとして扱われているし。
パンフレット出版統計
出版年 | 点数 |
---|---|
1931 昭和6 | 7412 |
1932 昭和7 | 5523 |
1933 昭和8 | 5468 |
1934 昭和9 | 7117 |
1935 昭和10 | 10021 |
1936 昭和11 | 13743 |
1937 昭和12 | 9737 |
1938 昭和13 | 7940 |
1939 昭和14 | 6351 |
1940 昭和15 | 6376 |
1941 昭和16 | 6431* |
1942 昭和17 | 4698 |
備考:昭和16年については6535の数値もある(ちなみに昭和18年以降の数値は牧野(1996)にあって、なんと昭和21年までの数値がある。どうやら昭和21年まで内務省警保局図書課は戦前体制のまま統計をとっていたよう)。
今野は、昭8 4863冊、昭9 6189冊、昭10 9099冊、と、近似するがズレる数値を使用しており、いったい何を出典としたかはきはめて興味深い。もすかすて集計途中の図書課統計をコソーリ見たのか(σ^〜^)
日本近代パンフレット史 関係文献
皓星社雑索などから。
- 濱脇徹三「パンフレツト文化」『解放』5(8) (大正12年8月) ※未見。
- 禿氏祐祥「パンフレット蒐集」『古本屋 』第8号 p.27-28 (昭和4年12月) ※震災以降、古書趣味が普及し、以前は「京都でも東京でも一二ヶ所ばかり」の古本屋でしか売っていなかったものが古書目録に出るようになった。「パンフレツトはこれを整理して鄭重に保存する人は甚だ少い」。モリソン文庫(東洋文庫)に「近代の支那に関するパンフレツトが、沢山集まってゐる点で比類がない」と評価。
- 佐藤豊「パンフレツト」『前衛詩人』 1(7) (1930年9月) ※未見
- 近藤一郎「 《評論》文芸時評:十銭雑誌ほか(吉行エイスケ「阿片工場」、阿部知二「航海」その他)」『新科學的文藝』2(9) (昭和6年9月)
- 水上淡三「流行十銭雑誌展望」第3巻第10号『書物展望』(昭和8年10月)
- 山川均「国防パンフレット問題 小冊子の大波紋」『改造』16(12)(昭和9年11月) ※いわゆる「陸軍パンフレット事件」の特集号。「パンフ=小冊子」の例として1つあげた。
- 「所謂十銭パンフレットに関する調査」『出版形警察資料』(13) p.〓(1936.7) ※最重要文献
- 「ヂャアナリズムの動き:パンフレット時代来るか、ほか」『新潮』33(10)(昭和11年10月)
- 大宅壯一「パンフレット・ジャーナリズム論」『日本評論』(昭和12年5月号) ※さすが大宅、目をつけていたか。
- 由井正臣『出版警察関係資料解説・総目次』 不二出版 1983.1
- 牧野正久「年報『大日本帝国内務省統計報告』中の出版統計の解析(下)」『日本出版史料』2(1996)p.20
1930年代のパンフレット出版の特徴
内務省警保局の発表値を見ると、昭和9年から11年にかけて1万点前後になりながら、結局、5千点前後に戻っていくことがわかる。
パンフレットはそのかみ、「政治文書(西歐初期近代)や商品カタログ」と森さんに言われるまへにも薄々気づいていたんだけど、パンフはもともと布教やオルグ、宣伝などのために基本的に〈非売品〉から出発している。逆に言うと、基本の年間5千点はそういった非売品で、「パンフレット・ジャーナリズム」として大宅壮一に把握された1930年代部分は売品であろうと考えるのがよいのでは。
まだ一般化していなかった「週刊誌」の先駆(まさに、「国策パンフレット」たる『週報』は週刊誌だ)として、
だいたい、警保局が普通出版の中からパンフを独立的に数え始めたのは、昭和6年から
先行文献:なにごとにも先達は
さういへば、形態別の統計表もあったっけかと、牧野(1996)を見たら、なんときちんと昭和21年までの数値があがっていた。そんでその流れで、由井先生の「解説・総目次」に、昭和10年前後のパンフレットはその前後とは違うものであったという指摘がすでにあることが書かれていた。由井先生は、『出版形警察資料』(13)の記事を引いて論じている(他にも、『ー資料』20、22、36号に断片情報があると由井先生はいう)という。
ということで、十銭パンフレットを歴史的に検討するものとして、由井(1983)、牧野(1996)が先行文献としてあるということにあいなった。
暫定結論
近代日本のパンフは、非売品の流れに、1930年代売品の十銭パンフが一時的にのっかり、それは「パンフレット・ジャーナリズム」として週刊誌のない時代に同様のニーズをすくいあげていったが、政府の『週報』(『写真週報』もわすれちゃなんね、ってか、だとすると、『写真週報』は『Focus』の先祖ってか(^-^;) )がニーズを引き取る一方、出版統制で衰退していった。敗戦直後の『日本叢書』などは戦前十銭パンフの一時的復活とみなすこともできる。
*1:乙部は逆に、コソーリと保存しておくというもの。